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・タレントという存在について
(2003.4.9)

-- タレントという存在について --

 相変わらずテレビっこ種藤は、暇と思えばテレビのリモコンをつけ、在京キー局という分母の中からその中でまあ比較的見れそうな番組を何の気なしにチョイスしている毎日を送っております。

 しかし、ここ最近の季節柄から、ただあてもなくチャンネルを回すという「受け」の体勢から、自ら面白い番組を探そうという「攻め」の体勢に移行しつつあります。

 4月。
 番組改編の季節。


 新たな番組が続々登場する昨今、多少の仕事が入っていても「この番組は見なくては!」と私の内なる先頭本能に火をつけてくれる番組を、現在私は探しております。

 番組探しのツールは、新聞を取っていない(取れない?)我が家では、『ザ・テレ○ジョン』やら『テレビ○あ』などのテレビ番組情報雑誌がメイン。青マーカー片手に重箱の隅をつつく勢いで興味のありそうな番組をあさっているのですが・・・。

 ないですねえ。そこまで私をかき立てる番組が。

 何より一番残念なのが、ゴールデンタイム近辺に放送されるドラマ。

 この手の情報誌には、新たに始まる番組の簡単な紹介と、登場するキャストが紹介されているのが普通であり、私もざっとこの春始まるドラマを一通り目を通したのですけれど。

 ぐっとこない。私の心を鷲掴みにしないんですよ。

 でも、不思議な事に、それぞれ番組の内容について読み進めると、それほど面白みがないものばかりではないし(あるにはあるのだけれど)、ちょっとのぞいてみようかな?と思うようなものもいくつか存在するには存在するのですが、ある壁が、私のマーカーを動かすのにじゃまをする。

 キャスト=配役です。

「この人の演技を見たい!」と思わせるような役者さんが、ほとんどいないんですよねえ。
 逆に、せっかく見たいと思うような内容のドラマに限って、「なんでこの人が主役?」という残念無念なキャスティングが実現している。ちなみに嫁は、今春始まる某少女マンガ原作のドラマで登場する主人公役・ヒロイン役のキャストを知って、防音設備のない部屋だと言うことを忘れて発狂していました。合掌。

 今現在、ドラマに出演している人。職業としての「役者」さんはかなり少ないんじゃないでしょうか。
 ほとんどが、「タレント」と呼ばれる人ばかり。

 私、この「タレント」と呼ばれる人達、ちょっとくせものだと思うんですよ。

 タレント=Talent[才能がある・才能]という意味だったと大学受験英語のうる覚えの知識を掘り起こし思い出したのですが、確かそうですよね?(確認)じゃあ世間的に「タレント」と呼ばれる人は、Talent[才能がある・才能]に満ちあふれているのか、というと、う〜む、どうなんだろうと頭をひねらざるを得ないんですよ。少なくとも、私がテレビを見ている前で「タレント」と呼ばれる人がTalent[才能がある・才能]を感じるシーンはほとんどない。ありますか?みなさん。

 いやいや、一部の「タレント」と呼ばれる人は、Talent[才能がある・才能]を感じさせてくれます。
 一番よい例は、司会業をこなす人。
 彼らはTalent[才能がある・才能]なくして成立しないでしょう。峰○太、中山秀○あたりは、好き嫌いはさておき、彼らのTalent[才能がある・才能]があるからこそ、番組が成立していると言って良いと思います。あと、そのほかにも「タレント」と呼ばれる人の中で、Talent[才能がある・才能]を持ち合わせている人は多数いると思います。

 でも。
 世の「タレント」と呼ばれる大半は、そうではない部類=Talent[才能がある・才能]がなんなのかわからない人達ばかりのような気がします。

 で、個人的な意見を付け加えるならば(もうとっくに個人的意見で塗り固められている訳ですけれど)、そういう人達が公共の電波に乗って当たり前のように茶の間に登場するというのが、私には耐えられない。

 私はここ最近のテレビメディアにはかなりあきらめを持ってはいますが(携帯コマーシャルしかり、その他メディア規制しかり)、でもメディアに出る以上ある程度出演する人のボーダーラインがなくてはいけないと思っています。素人出演番組はぎりぎり許しましょう(決して面白いとは思いませんが)。でも、そうした素人と何が違うの?という人達が我が物顔で「タレント」として登場する姿には、怒りを通り越して悲しくさえあります。

 やっぱり、メディアを通して何かを表現したり、伝えたりする人達は、それなりのTalent[才能がある・才能]がなくては。

 だから私は、賛否両論あるにせよ、ある分野(音楽、スポーツ、演技など)で社会的に評価された人は、「タレント」となっても良いと思うんです。一つのことでトップに立てば、あとは何でもありっていうのは、まあ世の中往々にしてありうることですし、一つの分野に秀でた人の話というのは、確かに一般の人にはない面白さ、興味深さはありますから。ただまああくまで「○○の分野で一番だった」という冠が着いていることを自らが常に自覚していればの話ですけれどね

 でも最近では、「一つの分野で秀でれば『タレント化』しても許される」という計算がある上で、音楽、スポーツ、演技など(特に音楽)で一発当てようと言う人が多く、実際そうした形でうまくタレント化している人がたくさん実在してるのが実状。そうなると、鶏と卵じゃないけれど、どっちが目的でどっちが二次的副産物なのか訳わからなくなってきます・・・。ヴァーリ・トゥードは格闘技だけで十分です(ヴァーリ・トゥードの意味が分からない人なんて、このエッセイの読者にいませんよね♪)。
 
 まあ少なくともTalent[才能がある・才能]の有無で勝負していない職業・タレントの方達について言えることは二つあります。

 一つは、この手の「タレント」は、テレビに出演している頻度=才能がある・評価されている、という訳ではないと言うこと。
 いきなりある時期からテレビ、雑誌、ラジオなどで不自然に登場を重ねるタレントが多いですけれど(特に女性)、それはその人に人気が出るポテンシャルがあるからというのではなく、もっと商品的な意味での価値、つまりここでいう「タレント」の買い手=テレビ・雑誌等制作側にとって使いやすい商品(使わなければならない商品?)である可能性が高いと言うことだと思うんですよ。で、メディアに登場する頻度が多い=人気がある、Talent[才能がある・才能]があるという錯覚に視聴者は陥りやすいために、気がつけばそのタレントが売れっ子になる(なっているように感じる)と言う図式が世の中では多いと思うので、それは違うのではないか、と私は思うのですがいかがでしょう。

 あともう一つ。それは、ボブ・サップは「タレント」ではありません。あくまでプロレスラー・格闘家の部類です。「タレント」として認知している方、誤解のないように(特にテレビ局の方・(笑))。

■J

2003.4.9.
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