今日12月25日はクリスマス。
昨日はクリスマス・イヴ。
みなさんはいかがお過ごしでしたか?
私は毎年恒例のプロレスリング・ノアクリスマス興行観戦(一応仕事です)を堪能、その後
「みんなこういう場合どうするんだ?」で登場したラーメン屋で
とんこつしょうゆラーメンとライスを頼み、彼女とメリークリスマスをしていました。
昔なら、こういうクリスマスの過ごし方は考えられなかったなあ。
小さい頃のクリスマスは、なんだかとても興奮したことを覚えています。
12月24日の夜に、サンタさんがやってきて枕元に自分が欲しいものを置いていってくれる。
そのプレゼントが
なぜ新聞の折り込みチラシによって選ばれるのか、
なぜそこで決めたものを親に言えばサンタさんに情報が伝わり、プレゼントが運ばれてくるのか、
なぜプレゼントの上限が5000円と決まっていたのか、などなど、今考えれば明らか腑に落ちない内容で、結果だれがサンタさんであるか明らかであるにもかかわらず、なぜあれほど興奮したのか。
私の尊敬する作家(私のくくりではエッセイストという方がしっくりくるのですが)・原田宗典氏が著書『笑っている場合』で語っていたことを思い出します。
「年を取るほどクリスマスや年越しに対するドキドキ感がなくなってくる」
|
かつて私にとって、クリスマスはとても神聖なものでありました。
ディナー(この呼び方からクリスマスモードに突入していました)は絶対
白いご飯は食べない。
鳥(七面鳥でなくても可)を食べる。
イチゴのショートケーキを食べる。そしてクリスマスモードも最高潮に達したとき、就寝。どんなに眠くなくても目を閉じていなくてはサンタさんはプレゼントは届けてくれない。
別に誰が決めたわけでもなく、何となく現実はわかっていても、それに目をつぶることでなんだかとても大事なことをしているように思っていました。
しかし、中学、高校、大学、そして社会人と年を経ることにより、その気持ちは薄れてきました。
枕元プレゼントというシステム自体がなくなり、クリスマスがカップルであるかどうかの判断する日となってきました。パーティーなどを開くも、かつてのようなドキドキしながらもどこか厳かな感覚を、クリスマスに対して感じることはなくなってました。
そして今や
ラーメン屋で白いご飯に野沢菜の漬け物を山盛りに乗っけて、しょうゆとんこつラーメンとともにかっこむのが、私のクリスマスとなっているわけです。
年を経るごとに、常識を知り、それを受け止めて実行することを要求される。結果、かつて未知の世界として曖昧にされてきたものに対するドキドキ感がなくなってきた、ということでしょうか。それを世間では大人になったと定義するのでしょうか。原田氏もそのへんの事を著作の中で語っていたように記憶しています。
でも、
私はそうしたクリスマスを今楽しんでいます。ラーメン屋のクリスマス、私は個人的に結構好きです(彼女は一応楽しいと申してくれていますが、本当のところどう思っているかわかりませんが)。
常識を受け止め、その上で自分なりのスタイルを楽しむことができるようになったようです。人は人。私は私のスタイルがあると。ドキドキ感がなくても、まあ楽しいじゃないかと。
そういうのを含めて、大人になったと私は勝手に思っています。
年明けもそんなぬるま湯感覚で2003年を迎えたいと思います。
ということで、みなさんメリークリスマスおよび良いお年を。
※新年1月1日更新は、元旦と言うことでお休みさせていただきます。いいですよね?
■J