元の発言 [ Title楽浪土器 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月15日(木)17時34分18秒 ]
>> 考古の方は苦手なのですが、くみさん紹介のHPから
>> http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/lib/wrk/2000a_41.html#4に
>> 「これらの日本出土楽浪土器は、器形や胎土・焼成などが、平壌市・楽浪土城のそれ〔谷1984・1985・1986〕よりも洗練されているようである。つまり、通常の生活用土器ではなく、
>> 選ばれた土器だけが搬入されるような状況が想定される。」
海外向け輸出(贈呈)用に特別製作した、つまり外国向けという意識があったのでしょうか。
>> 「今のところ、可能性の高い数例を除けば、確実に弥生中期に遡る楽浪瓦質土器の例はなく、また、弥生後期以降の出土例は対馬・壱岐・北部九州に集中している。」
例えば奴国が漢に貢献し、これに対する返礼であったとすると、対馬・壱岐などは奴国向けの品を途中でちゃっかり頂いたのでしょうか。
>> つまり、朝貢に対する返礼として下賜された(選ばれた)土器が対馬・壱岐・北部九州にしかなく、漢や公孫氏に朝貢していたのはこれらの地域であるといえるのではないでしょうか。
対馬・壱岐等は金印がもらえるほどの大国ではないが土器などはもらえた。その代わり海産物などを持っていっていたのだろうか。そうなると朝貢なんていうより沿岸貿易的なものですね。
>> 一方畿内では弥生後期には三韓瓦質土器と三韓軟質土器が多い。
>> もちろんこれらの土器が北九州に来ていない訳ではなく畿内より濃く出るの
>>で畿内にはおこぼれとして移入された物と考えられます。
北九州からおこぼれというのは表現が偏っているような感じですねー。別の需給ルートも考えられるのでは。いや、そう考えるのが正解かもしれませんね〜。
弁韓・辰韓‐山陰・畿内/楽浪-北九州、このルートが倭国大乱によって東瀬戸内・畿内による北九州統合、奴国の滅亡・・・というコースをたどるのではないでしょうか。
>> そして質の高い楽浪瓦質土器は畿内までは伝えられない。
楽浪ー北九州の朝貢関係の続く限りその通りであったのでしょう。滅び行くもの同士の最後のお付き合いとでも言うのでしょうか。
>> 畿内派が幾ら古墳の始まった時期を繰り上げようと土器の発掘例からして邪馬台国が畿内にあった可能性は少ないといえるのではないでしょうか。
人為的に過去を操作するなんてぞっとする発想ですねー。おっしゃるような畿内派なるものがいるとすれば非常におかしいことですね。時期の繰上げなんてことは発見された事実が行うことであって、全く人為的なことではないはずですから。わたしも全くの素人なものでご無礼の段はご容赦ください。
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