元の発言 [ Re: 箸墓にこだわるのはわかる気がしますが ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 8月24日(土)06時30分47秒 ]
>> いずれにしろ,「國大人皆四五婦、下戸或二三婦」という表現だけでは,
>> なんとも言えません。印象からくる思い込み記事かもしれませんから。
>> 「國多女子」のたぐいの情報については,岩波文庫版の解説には,後漢書等による造作か,
>> と読める個所があります。が,どう解釈したらよいのか,よく分かりません。
>> >> 直後からというのは無理でしょう。
>> >> 戦いが終わってもしばらくは再発の恐れがあり疑心暗鬼の状態が続く筈です。
>> >> どちらかの一方的勝利と言うことでなく卑弥呼を実権のない王に祭り上げる事で妥協した訳ですから。
>> その妥協が,倭国の連合を強くし,そのまま,のちの大和政権に発展したものか,
>> と推理する場合には,前方後円墳の起源は遡る,という組み立てになるでしょう。
>> 勝山古墳年輪年代の仮説を,安本説のように組むならば,勿論,成立しがたいか。
私は年輪年代(M氏の)そのものに疑念を持っていますからもっと過激ですが、安本説の方が合理的だと思います。
>> あるいは,上で指摘した岩波文庫版の解説によると,「桓・霊の間」というのは,
>> 後漢書の造作で,魏志倭人伝に明記されているわけではない,ということになります。
>> が,これも,どう解釈したらよいのか,よく分かりません。
「住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。」が卑弥呼の遣使から「七、八十年」と解釈したのでしょう。
陳壽が三国志を書いた280年頃というのは成り立つのでしょうか?
>> >> 砦を築くとか環濠を補修する方が先でしょう。
>> しかし,狗奴国戦の直後に,卑弥呼が死んで,それで「大作冢」とあるわけですから。
箸墓って被葬者が生前に作っておいたもののような気がします。
死んでから10年以上かけて墓を作ったら遺体は腐ってなくなってしまうでしょうから。
死後の築造であれば弥生墳丘墓のようにやや小高い丘に棺を納める穴を掘って埋葬し、その上に土を盛っていくやり方以外は考えられません。
箸墓はどうやら低湿地帯に作られているようですし、後円部の頂上に棺があるのではないでしょうか?
>> >> 台与が4世紀まで生きのびていれば可能性は無くもありませんね。
>> というか,あの説,この説あるうちで,仮説を組み立てるという場合,
>> 箸墓については3世紀後半説というものもあるわけで,
>> その線に沿っての話です。
私の話は箸墓が生前に築造されていたという前提ですが。
>> 安本説のように,350年以降で仮説を組むならば,勿論,成立しがたいでしょう。
>> 「北部九州の天孫勢」といっても,半島南部からの「天孫派帰還部隊」かもしれません。
>> その辺りについては,いろいろ考えています。
>> いずれにしろ,神武東遷とか神武東征とかの伝承とは,分けて考えるべきです。
私は神武東征も五世紀以降の寓話であろうと考えていまして三世紀は畿内大和政権と九州倭国は別物だと思っています。
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