考古の方は苦手なのですが、くみさん紹介のHPから
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/lib/wrk/2000a_41.html#4に
「これらの日本出土楽浪土器は、器形や胎土・焼成などが、平壌市・楽浪土城のそれ〔谷1984・1985・1986〕よりも洗練されているようである。つまり、通常の生活用土器ではなく、
選ばれた土器だけが搬入されるような状況が想定される。」
「今のところ、可能性の高い数例を除けば、確実に弥生中期に遡る楽浪瓦質土器の例はなく、また、弥生後期以降の出土例は対馬・壱岐・北部九州に集中している。」
つまり、朝貢に対する返礼として下賜された(選ばれた)土器が対馬・壱岐・北部九州にしかなく、漢や公孫氏に朝貢していたのはこれらの地域であるといえるのではないでしょうか。
一方畿内では弥生後期には三韓瓦質土器と三韓軟質土器が多い。
もちろんこれらの土器が北九州に来ていない訳ではなく畿内より濃く出るので畿内にはおこぼれとして移入された物と考えられます。
そして質の高い楽浪瓦質土器は畿内までは伝えられない。
畿内派が幾ら古墳の始まった時期を繰り上げようと土器の発掘例からして邪馬台国が畿内にあった可能性は少ないといえるのではないでしょうか。
その他発言: