元の発言 [ Re: 箸墓にこだわるのはわかる気がしますが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月25日(日)09時13分22秒 ]
>> >> いずれにしろ,「國大人皆四五婦、下戸或二三婦」という表現だけでは,
>> >> なんとも言えません。
「下戸或二三婦」については,「下戸の中にも,二三婦持つ者が稀にはいる」
という含みから読み解く説もあるようです。
この場合には,人口比率は半々でもよく,たいして疑問は湧かないですね。
しかし,後漢書等の作者は,どう読んだものか?
>> 私は年輪年代(M氏の)そのものに疑念を持っていますからもっと過激ですが、安本説の方が合理的だと思います。
年輪年代法の確立次第でしょう。が,研究者には自信がある,と。
>> 「住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。」が卑弥呼の遣使から「七、八十年」と解釈したのでしょう。
>> 陳壽が三国志を書いた280年頃というのは成り立つのでしょうか?
初遣使の直前かもしれない,ということじゃないすか。
これだと,卑弥呼の年齢は,遣使以降において長大ということになり,
妙齢の婦人と解釈する場合には都合がいいですね。
この場合,男王が立ったのは2世紀中ごろですか。
しかし,「桓・霊の間」という記述については,
いろいろと興味深いわけでしょうから,なんとも分かりません。
>> 私の話は箸墓が生前に築造されていたという前提ですが。
伝承通りなら,死んでからですけど,なんとも分かりません。
話は変わりますが,ミホツヒメの場合には,
現実には大和に入京していなかった,という線も考えられます。
>> 私は神武東征も五世紀以降の寓話であろうと考えていまして
個人的には,南九州の遺跡発掘が進んでいますので,
古い史実の反映ではないかと期待して推理しています。
>> 三世紀は畿内大和政権と九州倭国は別物だと思っています。
確かに,そういう線もないとは言えませんよね。
しかし,一大率の位置付けが課題となるでしょう。
畿内大和が奴国発展型なら,畿内大和の線が強まるかもしれません。なんて。§^。^§
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