元の発言 [ 箸墓にこだわるのはわかる気がしますが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 8月23日(金)00時31分38秒 ]
>> 割り込み失礼します。
>> 馬頭鬼です。お久しぶりです。
どうもお久しぶりです。
最近書き込みが少なくて寂しかったです。
一人で畿内説派を挑発するため過激な発言をしていましたが乗ってこなくって。
>> >> 初めから箸墓を卑弥呼の墓と決め付け、取るに足らない証拠を掻き集めて逮捕し検察に不利な証拠は無視する見たいな事をしている?
>> >> 冤罪の典型的パターンです。
>> >> >> >箸墓の周濠からは底の方から木製の輪鐙が発掘されま>したがこれはすごく重要な発見であるにもかかわらず>あまり話題になりませんでした。
>> >> >> >これは古墳時代の始まりを繰り上げようとする一連の>動きに水を注す物だったからです。
>> >> >> >倭人伝にも倭国には馬がいないと書いてあるのですか>ら。日本で馬の飼育が始まったのは5世紀と言われて>います。
>> >> >> >3世紀半ばにしたい箸墓からでてきてはいけない物だ>ったのです。
>> >> >> >しかしさすが公の機関である橿原考古学研究所はこれ>を隠す事はしなかった。
>> >> >> >ただ一切の論評を加えずひっそりと発表しました。
>> どうも、気になるのですが、なぜ、前方後円墳にこだわるのでしょうか?
>> 箸墓に拘りたいのも解らなくないのです。
>> 伝説と言い、どうしても代表にしてしまうのでしょう。
>> しかし、私は、古墳時代の発生とは、前方後円墳が造られてから区分ではないと考えます。
>> どちらかと言うと、弥生の国々に円墳や方墳が作られはじめたのが、
>> 古墳時代と言うものだと思います。
5mから10mの円墳や方墳ですか?
高さも低くて古墳の定義に入らず、弥生墳丘墓と呼ばれているのでは?
>> そして、それに前方後円墳というエポックメーキングな形が加わった。
>> 方墳は方形周壕墓の流れから、円墳は、塚からの流れでしょう。
>> そう考えるのが、自然でしょう。
そういう見方も当然あるでしょう。可能性は否定しません。
>> そして、以前にあった、前方後円墳の形は家であると言うのもうなずける説です。
帆立貝型というと初期型の前方後円墳ですね。確かに前方部がもっと小さければ竪穴式住居に似ていなくもないですね。
しかし古墳時代になっても王は竪穴式住居に住んでいたのでしょうか?
>>また、帆立貝なんかの貝の形と言うのもです。
>> 理由は、貝とは不死の象徴であることが伝説にもあります。
>> また貝は、女性器の象徴です。再生を願うのにはふさわしいでしょう。
否定はしませんが確たる証拠ではないと思います。
>> そして、沖縄の墓の形、これは、女性の子宮をかたどっているそうです。
>> この形が変化してもおかしくはないでしょう。
沖縄の墓の形は台湾の東海岸沿いの墓とそっくりですね。
何時頃からの形式なのかわかりませんが。
>> すると、突然に、前方後円墳ができて古墳時代というのと卑弥呼の時代を合わせるのも、
>> おかしいのではないでしょうか?
>> つまり、それ以前から古墳時代だとも考えなければおかしくなります。
倭国においてAD180年くらいに長年、戦争状態があった訳です。
この間は大きな古墳を作る事は不可能でした。卑弥呼の時代も狗奴国との対立があり大きな古墳は作れなかった。
卑弥呼の死後も内乱が発生し、壹與が女王に就任するまでは国内が安定しなかったので大きな墓を作る客観情勢には無かったのです。
中国においても三世紀の墓の規模は極めて小さいのです。
薄葬令のあった魏は別としても蜀の劉備の墓も径60mくらいなのです。
戦いに明け暮れ大きな墓を作る為に人手を割いていれば其処を突かれて戦いに敗れてしまいますから。
倭国においても中国においても大きな墓を作る客観情勢はなかったのです。
九州において2世紀末から3世紀に掛けて墓の副葬品がみすぼらしくなるのも倭人伝の記載と整合するのですが、
畿内はどうでしょう。
箸墓はともかくとしても勝山、石塚、ホケノ山など劉備の墓に 匹敵あるいは数倍の大きさの墓を作る事が邪馬台国に出来た筈はない、
と私は思います。
>> >> スサノオの伝説も馬の存在を考えると5世紀頃の逸話でしょう。
>> >> モモソ姫が箸でホトを突いて自殺と言うのも3世紀に箸はなかった(手食)と倭人伝に書いてあり、3世紀の話では無いことになります。
>> この箸とはどんな箸でしょう?
>> 縄文時代から、いちお、箸はあります。
>> それは、一本箸でピンセットのようにつかむものです。
>> 神に供えるものに使われてたと言うのが、現在の学説のようです。
縄文時代ですか?
発掘例はあるのでしょうか。
古代、箸は神と天皇のみが使える神聖な道具だったと聞いています。
大和王朝が覇権を確立した5世紀あたりが妥当なのでは?
日本が朝鮮統治をしていた頃、韓国人の間で密かに次のようなことが言われていたそうです。
「昔、日本人は箸を使わず手で食べていた。そこで我々が箸を教えてやった。しかし匙は教えてやらなかった。
だから江戸時代くらいまで日本人は匙を知らなかった。
日本人は着物を持たず、裸で生活していた。そこで我々が着物を教えてやった。
しかしその着物は葬式用の服だったので日本では永らく葬式用の服で生活していた。」と。
これは全てが真実の話ではありませんが一面の真理を含んでいるでしょう。
あの黒と白の貴族の正装は喪服に見えます。
>> またその時代、渡来人であれば、箸を使っていてもおかしくはないかもしれません。
>> >> >> >しかし箸墓が三世紀半ば築造の線はほぼなくなりまし>た。
>> >> >> >4世紀半ばないし4世紀後半と言うのがまっとうな回>答でしょう。
>> >> >> >そして古墳時代の始まりも以前どおり4世紀初めとい>うのが正しいのではないでしょうか?
>> >> >> 箸墓にはスケール的存在感があり、古墳の全体的ランキングといった点から、いわゆるベンチマーク的存在にもなっており、この年代を動かすことはパラダイムシフト的なことを意味しますので、総合的アプローチを要する問題と認識せざるを得ません。
>> 賛成です。
>> しかし古墳の年代測定の正確な方法が確立できなければ、難しいでしょう。
>> 弥生時代の始まりからの第1期戦国時代これの終了は、大和朝廷の統一までと考えるべきでしょう。
日本列島に大陸から渡来人が幾度と無く大量にやってきたと思われその都度エポックメーキング的なことが起きたでしょう。
ズルズルと自然に大和朝廷が成立したのではないと思います。
>> ここ時代における。卑弥呼の意味は?
>> そして、古墳築造の意義この戦国時代に対する役割とは、何なんでしょう?
ですから国内にはっきりと敵対する勢力が消えた時を意味するのでは?
全国制覇したとは言いませんが。
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