元の発言 [ Re: (承前)Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 10月10日(木)10時04分13秒 ]
>> 6世紀頃からなら知っていたのですが、なるほどすでに農耕馬はいたということですか。
そのようですね。
>> ただし、この農耕馬を所有していたのは、この時期の全般的な、馬関連の出土状況からみた普及状況でみて、一般農民であるといえるのか。
一つの特異な共同体なんでしょうか。青銅器までやっていた,と。
縄文後期以降の交流地から見ても,きわめて注目度の高い遺跡ですね。要地と考えられるし。
次のサイトに面白い推理があります。能登川というのは秦荘町の近くで,
この時期に弓月氏が多く渡来してきたのだそうです。
「絹糸装飾の木盾」というのも発掘されたそうです。
嵐山文学/古代メモ \/[ MEMO 080 ] 2000.5.12 滋賀・能登川の馬鋤
http://arashiyama.hp.infoseek.co.jp/kodaimemo9.html#9-8
>> むしろごく一部の渡来人集団のみの利用ではないでしょうか。
支配階級に仕える有力渡来系集団,知識人とかの線かもしれません。
>> 実際に所有していたのは、支配階級ではなかったか。
>> そのような、高価で高い生産性を生み出す生産財の、支配階級による占有が、古墳時代の権力の集中を生み出したという論調ではないですか?
記紀の記述からは,馬というのは半島からの貢物ですよね。
応神十五年の記事では,百済王の使いとして良馬二匹を連れてきたのは,
阿直伎という人物で,半島の族長であり,馬を飼う上,
経典に通じています。阿直伎の進言により,王仁が招かれています。
こうした渡来人や渡韓経験者が,
「半島・大陸では農耕に牛馬を使う」と進言すれば,
それなりに入手の手立てが取られたのかも。
あるいは,飾り馬からの転用とか,すでに馬産業が成立していたとか。
>> この農耕馬に一般農民が常態として乗るようなことがあったのか、はなはだ疑問です。
>> 4、5世紀の馬の状況は、本来もう少し類例の追加をまって考えるべきでしょう。
鐙の件とは別ですが,
農民といっても自由を奪われて抑圧されていたとは限らないですし,
暢気な農村風景として,牛馬に乗ることくらいはあったんじゃないすか。
古来,田畑を耕して富や権力をなす知恵者は多かったでしょう。
農耕を生業だか副業とする共同体,
これが石器でも銅でも鉄でも争って入手していたらしいので,
牛馬耕導入というのも基本的には,その線でしょうか。
ただし,飼育・調教に優れた人物がいないと,
維持・管理は難しい,という点は確かでしょうね。
興味は尽きません。
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