Re: (承前)Re: 馬が出た

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [10月12日(土)23時04分20秒]

元の発言 [ Re: (承前)Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 10月11日(金)23時05分54秒 ]


>> さて気まぐれで乗ったかどうかまでは判りませんが。
>> 一般農民が常態として乗っていたとは思いません。


この視点は分かります。

が,社会のようすなどの微妙な観点については,
また調べなおしてみます。


>> それならそんな神話なり伝説があっても良いように思います。


ちょっと調べてみましょう。

>> そもそも馬が貴重品であり、その飼育もそれほど広がっていなかった時代に、その飼育を担当する人物はどんな立場にあったと思いますか。

まず,だいぶ以前ながら紹介した「最近の発掘から見た東日本 」のサイトに,
長野県の大室古墳群に関連する記事があるので,参照してください。

特に興味深いところを引用してみます。このうち,

「新しい技術を駆使して生産に従事した」という辺り,
牛馬耕について検討しても良さそうですかね。

「馬を媒介とする重層的な支配構造」という辺り,
ここが興味深いですね。

以上の2点が,まずは議論の基礎となりますか。

会津(相津)と言えば,高志とともに崇神記に出てきます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
最近の発掘から見た東日本
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html

 そういうことがあったけれども、もっと早く五世紀に朝鮮半島から技術を持
った集団が日本列島にやってきて、日本各地に住み、新しい技術を駆使して生
産に従事したということが、考古学的に言えると私は思っています。

そういう意味で、私はいま、大室古墳群の積石塚の出現は馬の飼育に関わる集
団のものと思っています。従って、最初の合掌型石室に埋葬された人たちはお
そらく朝鮮半島から移住してきた最初の渡来系の人たちだと思いますが、二代
目、三代目になると、在地の人たちとの関係も出てくる。そして、後代の村々
の人たちもみんな積石塚を造っていくことになってきて、積石塚が全体で五〇
〇基になったということは充分考えられます。つまり、東日本における馬の飼
育は、五世紀代の後半には長野県の善光寺平でもかなり大規模に行なわれ始め
ていた。その技術を持ち込み、馬の飼育を担ったのは、渡来系集団である、と
いうことですね。

 前方後円墳に埋葬されている人物の配下というか、従属する集団の墳墓の周
りから馬が出てくるということは、五世紀以降の、馬を媒介とする重層的な支
配構造が見てとれるのではないか。大和政権と深い関係を持ちながら、馬の飼
育に関わった伊那の地域集団の有力者たちは中央政権とかなりダイレクトに直
結していた。その首長たちは、自分の配下に、馬の飼育をする技術者集団をか
かえていた、ということになります。

 私たちは雪深い会津の里がという理解をしがちですが、出てくる土器を見る
と、渡来系の土器や北陸系の土器がたくさん出てきます。会津の土器と北陸の
土器を混ぜると、もう識別できません。ということは、北陸の加賀の地の土器
が福島県の会津に来ている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




その他発言:



その他発言:


[ 掲示板に戻る ]