元の発言 [ Re: (承前)Re: 馬が出た ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 10月12日(土)23時04分20秒 ]
こんばんは。
ちょっと一服さんの紹介で見たHPで考えついたことを一つ。
五世紀後半の古墳からは木心鉄板張輪鐙が埋葬され、同じく5世紀後半「蔀屋北遺跡」に箸墓からでたような木製輪鐙が見つかっています。
つまり上流階級の鐙が木心鉄板張になっている時に木製輪鐙も同時に存在している。
百歩下がって箸墓から出た鐙は上流階級であったとしても五世紀後半の木製輪鐙は上流階級の物ではないと言えるのではないでしょうか?
私は箸墓のものは古墳築造に使用された荷駄用の馬に付いていた物と考えるのが妥当で、「蔀屋北遺跡」の物は製塩用に塩の運搬に使用する馬の物だと考えます。
4世紀末ないし5世紀初頭にすでに農耕用馬具があったということは馬が決して権威の象徴としてだけ存在していた訳ではなく
荷駄用として使用されてもいいのではないですか?
そして貴族の権威を表す為の馬よりも荷駄,農耕用の馬のほうが多かったかもしれない。
これ等の馬が時の政権の管理下にあっても管理人が乗っても不思議はないでしょう。
貴族の権威を表す為の馬にこだわるのはきっと馬が中国皇帝からの下賜品であると言う仮説に囚われている為ではないでしょうか?
ちょっと一服さん紹介のページで出てくる積石塚は高句麗発で半島の三国時代4世紀になると新羅や百済にも広がっています。
ホケノ山の石積木槨なども同じような物が新羅地域にあります。
五世紀に日本に広がる積石塚は当然新羅や百済を介してきたものでしょう。
長野の積石塚近くからは同時に馬の飼育の跡も見つかっているらしい。
馬も当然韓国を介して来たと考えなければ辻褄が合いません。
韓国内では当然古くから馬は飼われていて、しかも3世紀馬韓あたりでは乗馬していなかったのです。
何の為に飼っていたのでしょう。まさか食料としてだけでないでしょう。
農耕や荷物運搬ではなかったかと思います。
そういった地域から伝播した馬が権威の為だけに存在していたと考える事は無理です。
百済から馬が来たのなら権威より農耕や荷駄用が先だった可能性すら出てきます。
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