元の発言 [ Re: (承前)Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 10月11日(金)09時48分54秒 ]
>> さて、所有者あるいは共同体の目を盗んでとか。
>> どうなんでしょうね。
>> 何か出てくれば話のしようもありますが。
そりゃー,一般にはなかったとは思いますよ。
さて,
5世紀の話でしょうけど,
允恭紀2年に,「馬に乗れる者」の無礼に関する記事があります。
「馬に乗れる者」というのは,闘鶏国造のことで,
闘鶏国造は,馬上から,若き皇后を嘲ったのがもとで,
後に死刑は免れたものの稲置に降格された,という話です。
馬に乗る者達が威張っていたのでしょうか。
というのは,
允恭紀2年の記事,読み方によっては,
若き皇后の実家の畑が疎放なのを軽蔑したものか,
とも解釈できそうです。
もともと生産力を競うふうはあったかもしれないですよね。
そもそも允恭天皇が皇位に就くのを拒んでいた件もあります。
仮に,そうだとすれば,
騎馬の通行あるいは,牛馬耕にて大生産を行っていた人々が,
各々,古墳も造営し,各々,羽振りを利かせていたものか,
という推理があってもよいことになりますかね。
なんて。§^。^§
# 皇室内部の争いの反映という視点も必要でしょうけどね。
>> 暢気な農村風景として、存在してたんでしょうか。
>> そもそも疑問。
牛馬耕に使っていたのなら,牛なり馬なりを飼育し,調教する者がいて,
その者は農耕(牛馬耕)とも不可分であったろうから,
調教がてら牛馬に乗る,あるいは跨る,ということはあったかもしれないな,という意味です。
それを技術または風習とする共同体か集団があったのなら,
その内部では担当者の特権として気兼ねなく暢気に行われていた,
というような推理。
逆に,国造など公の統率者の気風として暢気も行き過ぎると,
允恭紀2年のようなことになるのかもしれませんし,
権力に取りこむことで,そのコワモテふうの気風が流行し,
いわゆる古墳時代の歴史的な特色となったのかもしれません。
>> 少なくとも6世紀の状況と比較して、とても普及して大量にいたとは思えないので、非常に大切にされていたとは思います。
5世紀は射程かも。
大和朝廷の権力としては,雄略天皇の時代でしょうかね。
>> 時代が下がればね。
>> この当時の社会がどうだったか・・・
>> 8、9世紀ぐらいになると、文献上弓馬にすぐれた富裕農民とか出てくるらしい。
>> このあたりはあまりよく知りませんが、社会構造、個人の意識、価値観、生死観など、決して安易に時代を遡るべきではないと思います。
牛頭さんとの議論の件ですよね。
馬に乗るふうのあった渡来系の風習がもとで,・・・,
この後の推理は面白そうなので,ゆっくり考えます。(^◇^)¶
都祁村というのも,縄文時代から続いており,
やはり交通の要地で,古墳時代には三陵墓古墳群あり。
都祁村の起源
http://www.vill.tsuge.nara.jp/hist-main.html
>> 問題はその共同体による規制がどの程度のものだったかだと思います。
そうですね。地位の象徴ではあったでしょうから。
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