Re: タミル語に関して

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [7月26日(金)09時17分45秒]

元の発言 [ Re: タミル語に関して ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 7月25日(木)08時23分12秒 ]

割り込みしてすいませんが。

>> 最近は、糸浜線と並んで関東ー越後ライン(関越線)というもう一つの方言境界線が注目されていますが、これは歴史的に考えれば「あって当たり前」という気がします。
>> 糸浜線を突破して北方系縄文人の居住地域に侵入した弥生人達は、紀元前後には関東ー越後まで達しますが、「縄文人集落に襲いかかり男は皆殺しにするか捕まえて奴隷にし、女は捕まえて慰み者に・・・」という暴力的な侵略はそこでやめ、それ以上北には侵入しませんでした(それは方形周溝墓などの弥生遺跡の分布からわかります)。それ以上北に侵入しなかったのは、東北地方は当時の技術では稲作農耕に適さなかったからでしょう。
>> 従って、ここが結果的に日本語を話す弥生人とアイヌ語を話す北方系縄文人の居住領域の境界となり、この線を挟んで弥生人とアイヌ(蝦夷)とは平和共存するようになり、それは歴史時代に入った7世紀まで続きます。この長い期間に交易や略奪などを通じて農耕技術その他の弥生文明だけが北方に伝わり、蝦夷たちもかなり文明化されて人口も増え、「国家」を形成できる段階まで発展したのだと思われます。(7世紀には岩手あたりに「日高見国」という蝦夷国家があったとされています。)

東北北部にも弥生期の水田があったことや、関東ー越後ラインではもともと縄文期から文化層に差のあったことはどうお考えになりますか?
おっしゃることは分かりますが、弥生縄文の共存集落も相当数あり、どうもそう単純な現象ではなかったのではないかと思います。


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