元の発言 [ Re: タミル語に関して ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月7日(水)13時53分57秒 ]
>> 会津盆地では四隅突出型の墓が見つかっていますし、4世紀初頭とされる
>> 前方後円墳もありますので、関越線は突破してると思いますが。
じゃ、3世紀の終わり頃突破したんでしょ(^ヘ^)
>> 亀ヶ岡式の時代は縄文晩期(=西日本の弥生早期)で、まだ関東までは弥生人は来てないようです。
>> 縄文時代の文化圏としては、西日本は割と一体ですが、東日本は時代によって色々あるようです。
>> 現代に残る日本の文化圏の差は、水田稲作が入ってきたときの各地の受容度の差によって
>> 形成されたとされる説もあります。
いろいろな説があるのは当然であり、私も専門家ではないからよくはわかりません。ただ、亀ケ岡文化が関東に波及していなかったからといって、そこに大きな文化断層があったということにはならないはずです。
>> 確かに宮城県あたりには、関東の豪族の北上があったようです。
>> ただし弥生遺跡も存在するので、農民の北上の方が早かったと思います。
じゃあ、そうかもしれません。
>> >> 弥生人の酋長の中には縄文人達と仲良くして農耕や弥生式土器の作り方を親切に教えてやった者もいるでしょうし、
>> こっちの証拠は各地に残っているわけです。
そういう地域があったということでしょう。私の仮説に従えば、この頃の弥生人は日本語を話していたはずであり、少なくとも南方系縄文人とのコミュニケーションには困らなかったはずですから。
>> >> むやみやたらと縄文人をぶち殺し、女を強姦するのを楽しみにしていた者もいるでしょう。
>> >> ただ、大局的に見れば後者に近い者の方が多かった、というだけのことです。
共存遺跡以外の地域の縄文人が消えていった事が証拠でしょう。
>> 畿内に進出した弥生集落は住み分けていた証拠があります。
それが弥生人化されていない、日本語以外の言語を話す純粋な渡来人だけであったという証拠があるのですか?
>> 民族移動というのは適切では有りませんでした。
>> 数家族づつの渡来と言う説が強いと聞きました。
数家族ずつで独立した社会生活を営むことは難しく、先住の弥生人社会に飲み込まれ、二三世代で言語は変わったはずです。
>> モデル化は大切な作業であると思います。
>> 私は遊惟さんのモデルを、考えを進める上で大変参考にさせていただいております。
>> どちらかというと自説に都合の良いモデルですので・・・
>> ただモデルはモデルに過ぎないので、さまざまな事実をもとに精密化してゆく必要はあります。
>> 下記サイトをみると疑問の余地が有るようです。
>> http://www.nichibun.ac.jp/omoto_home/members/jinrui.htm
琉球王国は17世紀初頭に薩摩藩の支配下に入り、薩摩の役人と警備兵が常駐していたはずです。また、それ以前に遣唐使などが漂着した事もあり、明治以前にも多少の混血はあったでしょう。
しかし、琉球の言語が弥生人もしくは日本人がもたらしたものとは考えられません。
その他発言: