Re: タミル語に関して

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [8月3日(土)15時52分47秒]

元の発言 [ Re: タミル語に関して ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月2日(金)22時30分32秒 ]

>>少なくとも関越線は水田稲作の北限ではなかったのですから、「それ以上北に侵入しなかったのは、東北地方は当時の技術では稲作農耕に適さなかったからでしょう。」というのは誤りではないでしょうか。
>>東北最北部の水田は一時的なものでしたが、宮城-山形の線あたりまで水田稲作は定着したようです。

正確に言えば、「東北地方は当時の技術では稲作農耕に適さないと、関越線まで来た弥生人達は判断したのだろう」ということです。おそらく福島南部あたりでもやってみたけど、うまくいかなかったからやめた、ということではないでしょうか。

>>縄文の文化相は大きく東西に分かれるのは良く知られていますが、その境界線は時代とともにゆれているようです。東西境界ほどではありませんが、新潟-福島の線以北は、縄文晩期には所謂亀ヶ岡文化の領域に属していて、それ以南とは様相が変わるようです。
>>その時代西日本はすでに弥生早期の様相ですが、まだ関東までは至っておりません。

亀ヶ岡式土器のことは知っていますが、それが関越線の南北で大きな文化断層があったということにはなっていないでしょう。
もちろん、縄文時代だって様々なイノベーションがあり、一カ所でイノベーションが起こればそこを中心として同心円的に周辺地域に波及していきます。ただ交通・通信の発達していない縄文時代にはその波及は緩慢であり、亀ヶ岡に発した(亀ヶ岡が震源地かどうかは判りませんが)イノベーションがやっと東北南部まで達した頃に北上してきた弥生人達とぶつかったということでしょう。
また、縄文海進が終わって海が後退して以降、関東地方は人口がまばらだったと思われ、集落と集落の距離が遠かったため技術が伝わるのが遅かったのかも知れません。

>>東北、北海道についてはもっと複雑な経緯があって、弥生文化が浸透してくると、稲作はともかく北海道の渡島まで影響が及ぶようです。
>>その後石狩平野で、縄文文化よりもより狩猟採集に傾き、定住性の低い続縄文文化が発生するようです。
>>これには南方の農耕地帯との生業的分業で、狩猟採集と交易を主にした文化という説もあるようです。

>>この文化は気候の寒冷化か何かが原因で、弥生終末から古墳前期にかけて新潟-福島の線まで南下してくるようですが、これも縄文晩期以来の文化相の差が影響しているのかもしれません。
>>その後古墳文化は宮城-山形の線まで北上し、それ以北には蝦夷の文化が成立します。

日本書紀には応神朝から清寧朝にかけて、蝦夷の服属や反乱の記事があり、その頃に栃木あたりの豪族が北上して蝦夷部族を支配下に於いたということではないでしょうか。

>>アイヌ語地名も宮城-山形の線と新潟-福島の線の二つの境界線があるようです。

人類の歴史は安定期と変動期を繰り返すものであり、一つの変動期が終わって安定期にはいると年輪のようにその痕跡がのこります。

>>日本中央の文化相の差にたういては、言語的な違いであったかどうかは分からないと思います。
>>縄文については、少なくともそんな証拠は上がっておらず、気候条件と植生の差による、生業の形態の違い以上のことは分かりません。

文字のない時代の言語のことが歴史学的・考古学的方法で解るはずがなく、後代の資料や現代まで残る痕跡で判断するしかありません。(^ヘ^)

歴史学的・考古学的・形質人類学的に様々な角度からみて、2300年前渡来人が入ってくる以前の日本先住民(縄文人)の直系子孫と思われる人々が日本列島の南北におり、本土日本人の支配下にはいる以前に北海道の人々はアイヌ語を話し、沖縄の人々は日本語を話していたという事実があります。
一方渡来人が朝鮮半島を経由して日本列島に入ってきたことは明白ですが、半島や大陸のどこを探しても日本語と同系統の言語を話している人々は見つかりません。(タミル語に関しては今まで述べた通り)
とすれば、本土にも沖縄と同じ系統の縄文人が住んでおり、その言語を弥生人達が継承したと考えるしかありません。(継承のメカニズムは今まで述べた通り)
そして、本土にも日本語を話す南方系の縄文人が住んでいたなら、アイヌ語を話す北方系の縄文人と棲み分けを行っていたということであり、どこかに境界線があるはずです。
そして、方言学・民俗学・考古学等によって東西文化の境界といわれる「糸魚川ー浜名湖線」というのがありますが、弥生時代・歴史時代に入って以降この線が形成されるような出来事は考えられないので、それは縄文時代からある断層であり、そこが南北縄文人の居住領域の境界であった、と考えるわけです。(但し、縄文末期の日本列島の人口は7万5千人程度と推定され、人口密度が極端に低かったため、何らかの理由でお互いがこの線を越えて相手の居住領域に飛び地のように住んでいた可能性は否定しません)
もう一つ「関東ー越後線」という言語・文化の境界線も指摘されていますが、このあたりが数百年に亘って弥生人と北方系縄文人(蝦夷)との居住領域の境であったことは考古学的・歴史学的に明らかであり、その名残であることは疑う余地がありません。

>>同一集落内での共存と思われる例もあるようです。

世の中には様々な人間がいます(^ヘ^)
シュバイツァーのように、アフリカ原住民の病気を治すために命を捧げる人もいれば、アフリカへ行って人間狩りを楽しむ人もいるのです。
弥生人の酋長の中には縄文人達と仲良くして農耕や弥生式土器の作り方を親切に教えてやった者もいるでしょうし、むやみやたらと縄文人をぶち殺し、女を強姦するのを楽しみにしていた者もいるでしょう。ただ、大局的に見れば後者に近い者の方が多かった、というだけのことです。

>>mtDNAなどからすると、大陸からやってきた集団には女性も含まれていたようです。

弥生人社会がある程度安定してきた時期には、女性連れでやってきた者もいるでしょう。

>>もしも女性を含む渡来集団が、最初は縄文人とテリトリーを分けて住み分けたなら、母系言語の継承仮説に反します。

それは「もしも」の話でしょ?(^ヘ^)
いずれにせよ、弥生人(日本人)が琉球人と同系統の言語を話しているという結果がある以上、その結果から逆算して原因を説明しなければなりませんが、今のところそれを説明できるのは「母親言語の継承」という仮説しかありません。

>>少なくとも弥生前期末から中期初めの渡来では、体系化された水田稲作の生活体系がそのまま入ってきたのではないでしょうか。その数も相当な数で、男性のみの偶発的な渡来というよりも、

兵船などが偶然漂着した渡来も可能性の一つですし、大陸や半島のあぶれ者が日本で一旗挙げようとやってきた可能性もありますが、いずれにせよ最初期段階に於いては女は殆ど連れずにやってきて、現地調達したと思われます。後で妻を呼び寄せたとしても、妾は何人いてもいいわけですから。

>>民族移動に近いものが有ったのではないかと思っています。

一気に何千人もの大規模な移動があれば、その痕跡が残るはずですが、それは今のところ見つかっていません。可能性としてあるのは秦の徐福伝説ぐらいです。(中国では日本人は徐福の子孫であるという説が俗説として広まっているようです)

>>しかもこの第二波の大部分は、第一波が定着した地域を素通りしていったようにいう説もあります。
第一波が定着した地域にも確実にやってきたのでしょうが、あまり激しい争いなしに定住できる奥地を目指したのかもしれません。

その可能性はあります。早々と日本に入植し農地を広げてある程度財をなした者は、せっかく開発した土地を捨てて奥地に進もうとは思わなかったでしょう。正規の妻に生ませた次男坊や三男坊を集め、縄文人の女に生ませた子供を兵隊としてつけて、奥地に向かわせたのかもしれませんが、その際に新たな渡来人も同道させる移民斡旋業者のような役割をしていたのかも知れません。

>>いずれにせよあまり簡単にモデル化できない部分があります。

これまで誰もモデル化した者がいないから、私がたたき台としてモデル化したまでです。(^ヘ^)

>>琉球語については、沖縄にも弥生文化が波及しており、縄文以来12世紀頃まで、人が南下しているように思います。沖縄の貝塚時代が長く続くのは、何かの条件で続縄文同様、むしろ採集と交易に特化したほうが有利であったからかもしれないと思います。

三々五々人が移住したり、交易があったことぐらいのことで社会全体の言語が変わったりはしません。せいぜい外来語が増えるぐらいのものです。
琉球人が本土日本人(弥生人の子孫)と遺伝形質的に異なることには疑問の余地がなく、弥生人が琉球人の祖先になったのではないことは確かです。

>>ところで奄美方言では、オ列の甲乙を発音し分けるというのは本当でしょうか。

服部四郎氏がそういう説を述べていますが、どういう説だったか詳しいことは忘れました。(^^;)
ごちゃごちゃ単語の例を挙げて説明していたような気がしますが、なんかの雑誌論文だったので今手元にありません。また、別の人の、新潟・佐渡の方言でオ列の長音に円唇・非円唇の区別があるという説もあります。(これは直接には上代特殊仮名遣いには言及していません)

新潟にせよ、奄美にせよ、もし話者自身が意図的に使い分けているのであれば、それはおそらく母音の違いというよりもアクセントの違いとして意識していると思われますが、資料が手元にない以上、はっきりしたことは言えません。





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