Re: 失礼、上のは間違い

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [8月9日(金)21時03分18秒]

元の発言 [ Re: 失礼、上のは間違い ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月8日(木)15時23分39秒 ]

>> >> >>上のサイトの例えば
>> >> >>http://www.nichibun.ac.jp/omoto_home/members/kojin/doi.htm
>> >> >>なんかをみると、グスク時代の人骨をもとに、その時代までに
>> >> >>形質の変化があったことを論じています。

>> >> 11〜12世紀以降のグスク時代に本土文化の受容があったことは以前から
>> >> 言われていますが、琉球語の起源がその時代まで下がると言うことは
>> >> 言語学・方言学では否定されており、もっと古い時代に形成されたものと
>> >> 考えられています。
>> >> そのような新しい時代に本土から入ってきた人々が広めた言語にしては、
>> >> 日本語との親縁性が遠すぎるからです。

>> 上のリンクはグスク時代までに形質の変化があったことを言っているわけです。
>> グスク時代にと限定しているわけではありません。

この研究者達は、形質の変化をもたらしたのが弥生人(本土日本人)、あるいは朝鮮系の渡来人であったといっているわけでもありません

>> >> >>http://www.nichibun.ac.jp/omoto_home/members/kojin/doi.htm
>> >> >>ここでは沖縄の縄文人の骨をもとに、沖縄では縄文人から弥生人へは
>> >> >>連続しない可能性があることを論じています。

>> これは弥生時代に形質の変化があった可能性を言っています。

>> 下記のリンクでは
>> http://www.sagatokimeki.ne.jp/kouza/chishiki/seminar/tokubetu/tokubetu2.

>> html

>> 「弥生時代になると九州・沖縄、山口地域では、顔・かたちに変化が
>> みられるようになり、形質の地域差が認められるようになる」

>> と言っています。

あなたはこのHPしか見ていないようですが、この松下氏が南九州・南島系といっている弥生人は主として種子島の広田遺跡の弥生人のこと

です。そしてこの広田弥生人を、弥生人と見なすか縄文人と見なすかは研究者の間で大いに議論があるところなのです。というのは、広田

人は他の弥生人より背が遙かに小さく、歯並びは縄文人的であるなど、他の弥生人とは明らかに形質が異なるからです。何より松下氏自身

が、広田人の形質変化をもたらしたのは北方系(朝鮮)の渡来人ではなく、南方から来た別系統の渡来人であるかもしれない、と言ってい

ます。

>> 戦後沖縄では弥生時代の遺跡が次々発見され、考古学的にも人類学的にも
>> 弥生時代に渡来人がいたことは明らかで、これは本土と変わりありません。

本土では弥生時代に相当する時代の遺跡が発見されているだけであり、渡来人がいたことが明らかだなどとは誰も言っていません。(いっ

ている研究者がいたら教えてください)また、仮に渡来人がいたとしても、日本に弥生時代をもたらした朝鮮半島からの渡来人と同じであ

るという証拠もありません。この時代の遺跡からは弥生式土器など本土から来た遺物も発見されていますが、一方本土では発見されていな

い中国からの遺物も多数発見されています。(琉球弧の考古学 白木原和美1992) 一方、この時代に沖縄で稲作が行われていた証拠は全

く見つかっていません。従って、日本が弥生時代中期〜古墳時代前期に相当する時代、琉球人達がゴボウラ貝などを商品にして弥生人や中

国などとの交易を行っていたことは確かだとしても、この時代に琉球に弥生人や渡来人が住んでいたと言う証拠はありません。

>> つまり沖縄を縄文の孤島とすることはいまや全く根拠がありません。

そんなことを断言している研究者は誰もいません。

>> したがって琉球語が縄文語の名残であると断定する根拠もありません。

弥生人語(日本語)が伝播したと断定する根拠はもっとありません。

>> 皆殺し強姦混血が全く無かったとは思いませんが、どのような観点で見ても
>> 渡来人が皆殺し強姦混血のみを繰り返しながら広がっていったという説は
>> 単純すぎて支持できません。
>> 皆殺し強姦混血が全く無かったとは思いませんが、どのような観点で見ても
>> 渡来人が皆殺し強姦混血のみを繰り返しながら広がっていったという説は
>> 単純すぎて支持できません。

高度文明を持つ民族が原始段階に近い先住民の土地に入植し、それを駆逐しつつ同化吸収していく場合には、「皆殺し強姦混血」が基本で

す。アメリカ・オーストラリア・台湾・南アフリカ・ニューギニア等々実例をあげれば枚挙のいとまはありません。「文明人は野蛮人と結

婚しようなどとは思わない」のが基本であり、それでも文明人と原住民の混血児が生まれるのは強姦があるからです。
「渡来人と原住民は仲良く暮らし、結婚するカップルが増え二つの民族が一つになりました」などと言うのは夢物語であって、言語・文化

を異にする二つの民族が一つになるのは一方が一方を力ずくで征服した場合か、さもなくば第三のより強力な民族に共に服属させられた場

合だけです。

一口に弥生時代といってもそれは600年の幅があり、しかもその開始は明確でも終焉はないのです。弥生時代と古墳時代を分けるのは、大き

な古墳が作られるということは、弥生人の人口が増え、地域的な政治統合が進み、強大な権力を持つ首長のいる「国家」形態を持つ時代に

入った、という政治史的な観点であり、その間に民族や文化の突然変異があったわけではなく、弥生時代はずっとつづいているです。ただ

、国家段階にはいると半島や中国との「国交」が盛んになり、学者や技術者の招聘などを通じて文明の発達は加速されたでしょうが。

縄文時代末期の日本列島の人口は7万5千ほどと推定されており、関越線以南だけなら5万ほどだったはずで、人口密度は極度に低かった

のです。狩猟採集生活をしている限り、人間は自然生態系の一部であって、一定数以上には人口は増えません。
B.C3世紀に北九州に入ってきて形成された弥生人は、猛烈な勢いで山陽道・山陰道、東海道・北陸道を駆け上り、その先鋒はB.C1世紀、

わずか200年ほどで関越線まで達したとされていますが、そんなことができたのは人口密度が極度に低く、先住民の抵抗があまりなかったか

らでしょう。新たな農地・居住地を求めて北上する弥生人の一集団はせいぜい100〜200程度だったでしょうが、縄文人の一集落はせいぜい

30〜50人程度であり、目星を付けた農耕適地に縄文人集落があれば、文字通り男は皆殺し女は捕まえて強姦でしょうが、農耕適地以外の縄

文人は悪さをしない限りほっといたはずです。そしてその土地で人口が倍ほどに増えれば、集団は二つに別れ、一方はその土地に残り、一

方は新たな農耕適地を求めて北に向かい、必要なら縄文人を襲う・・・という繰り返しで200年ほどで関越線まで達したということでしょう

が、弥生人の言語の交代は弥生人も縄文人も人口が極度に少なかった初期100年ぐらいの間に起こったと思われます。

だから関越線に達した頃B.C1世紀頃には、街道沿いに弥生人の100〜200人程度の「開拓者の村」が転々とあるだけで、近くの山の中などに

は30〜50人の縄文人の集落も点在していたはずです。その頃なら村の外に縄文人がいたって邪魔にはならず、悪さをしなければほっといた

はずで、結構仲良く交易などもしていたでしょう。そしてつきあいがあれば文明が流れ、縄文人達が自ら耕作を始めたりすれば、縄文人の

人口も増えていったはずです。
しかし、それから古墳時代に入る400年の間に弥生人の村の人口が1000人、10000人と増えていけば、最初は邪魔にならなかった縄文人も邪

魔になってくるのであり、縄文人の居住区に入ってこれを追っ払おうとする、縄文人は抵抗する、抵抗すればぶっ殺す、ぶっ殺すついでに

女は捕まえて強姦する、抵抗しない男は奴隷にしてこき使ったり、商品として海外に輸出することもあったでしょう。
また、縄文人の人口も増えていれば、例えば10000人の弥生人の「国」が500人の縄文人の「村」を武力で威嚇して服属させるだけですま

すこともあったでしょう(応神朝の頃にも大和や紀伊の山中に土蜘蛛・国栖などと呼ばれる人々がいたとされていますが、これも弥生人に服属した縄文人だと思われます)。そういった場合には、服属の証として族長に娘を提供させたり、村に派遣した統監や兵士達が縄文人の女達に子供を生ませることもあったはずで、そういう風な混血・同化も起こります。

ですから、ほぼ皆殺し強姦混血だけだったのは、弥生人も縄文人も人口が極度に少なかった初期だけであり、その後はいろんなパターンで同化混血は考えられます。但し皆殺しほど暴力的でなかったにせよ、弥生人達が力ずくで縄文人達を服属させ同化させたことだけは確かでしょう。

>> そうでないと説明できない事実も
>> 存在しないからです。

じゃあ、日本語が何処から来たのか説明してください。



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