Re: タミル語に関して

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [8月2日(金)22時30分32秒]

元の発言 [ Re: タミル語に関して ] お名前 [ 游惟 ] 日付 [ 7月28日(日)13時50分07秒 ]

すいませんレス遅くなりました。
あまり書けるほうではないので・・・

>> >>東北北部にも弥生期の水田があったことや、

>> だから、関越線をはさんで文明だけが北に流れた、と言っております。(^ヘ^)
>> 弥生人との交易で手に入れたり、盗んできた米を自分で真似して植えてみたり、あるいは心優しい弥生人が技術指導してやったりしたかも知れません

>> 言語を異にし、文明化の程度を異にする民族同士でも、お互いのテリトリーを犯す気がなければ共存可能なのであり、共存していれば交易や略奪によ

って相互の文明が流れます。

少なくとも関越線は水田稲作の北限ではなかったのですから、「それ以上北に侵入しなかったのは、東北地方は当時の技術では稲作農耕に適さなかった

からでしょう。」というのは誤りではないでしょうか。
東北最北部の水田は一時的なものでしたが、宮城-山形の線あたりまで水田稲作は定着したようです。

>> >>関東ー越後ラインではもともと縄文期から文化層に差のあったことはどうお考えになりますか?

>> その説は初耳です。もちろん、同じ言語を話す民族だって、居住地域が異なれば環境が異なり文化差があるのは当然です(例えば山中で暮らす人々と

海岸で暮らす人々の文化が違うのは当然)が、縄文時代に関越線の南北で明確な断層があったという話は聞いたことがありません。もし、そういう説が

あるのなら私の仮説も修正あるいは廃棄しなければならないので、教えてください。

縄文の文化相は大きく東西に分かれるのは良く知られていますが、その境界線は時代とともにゆれているようです。
東西境界ほどではありませんが、新潟-福島の線以北は、縄文晩期には所謂亀ヶ岡文化の領域に属していて、それ以南とは様相が変わるようです。
その時代西日本はすでに弥生早期の様相ですが、まだ関東までは至っておりません。

東北、北海道についてはもっと複雑な経緯があって、弥生文化が浸透してくると、稲作はともかく北海道の渡島まで影響が及ぶようです。
その後石狩平野で、縄文文化よりもより狩猟採集に傾き、定住性の低い続縄文文化が発生するようです。
これには南方の農耕地帯との生業的分業で、狩猟採集と交易を主にした文化という説もあるようです。

この文化は気候の寒冷化か何かが原因で、弥生終末から古墳前期にかけて新潟-福島の線まで南下してくるようですが、これも縄文晩期以来の文化相の差

が影響しているのかもしれません。
その後古墳文化は宮城-山形の線まで北上し、それ以北には蝦夷の文化が成立します。
アイヌ語地名も宮城-山形の線と新潟-福島の線の二つの境界線があるようです。

日本中央の文化相の差にたういては、言語的な違いであったかどうかは分からないと思います。
縄文については、少なくともそんな証拠は上がっておらず、気候条件と植生の差による、生業の形態の違い以上のことは分かりません。

>> >>おっしゃることは分かりますが、弥生縄文の共存集落も相当数あり、どうもそう単純な現象ではなかったのではないかと思います。

>> ある地域の縄文人と弥生人の交替は瞬間的に起こるわけではありません。(^ヘ^)
>> 弥生人達はまず沿海部の水利のよい稲作に適した平野から占領していったはずであり、先鋒隊が関東・越後に達した紀元前後の頃にも、糸浜線以西の

西日本でも山間部には多数の縄文人達が残っていたはずです。

>> ある土地に定住した弥生人達は耕地を広げ、人口が増えるに従って徐々に山中にも耕地を広げて行き、その段階で縄文人達が邪魔になるなら駆逐した

はずです。

同一集落内での共存と思われる例もあるようです。
mtDNAなどからすると、大陸からやってきた集団には女性も含まれていたようです。
もしも女性を含む渡来集団が、最初は縄文人とテリトリーを分けて住み分けたなら、母系言語の継承仮説に反します。

少なくとも弥生前期末から中期初めの渡来では、体系化された水田稲作の生活体系がそのまま入ってきたのではないでしょうか。
その数も相当な数で、男性のみの偶発的な渡来というよりも、民族移動に近いものが有ったのではないかと思っています。

しかもこの第二波の大部分は、第一波が定着した地域を素通りしていったようにいう説もあります。
第一波が定着した地域にも確実にやってきたのでしょうが、あまり激しい争いなしに定住できる奥地を目指したのかもしれません。

いずれにせよあまり簡単にモデル化できない部分があります。
琉球語については、沖縄にも弥生文化が波及しており、縄文以来12世紀頃まで、人が南下しているように思います。
沖縄の貝塚時代が長く続くのは、何かの条件で続縄文同様、むしろ採集と交易に特化したほうが有利であったからかもしれないと思います。
遊惟さんのモデルを否定はしませんが、他にもいろいろな可能性がありそうに思います。

ところで奄美方言では、オ列の甲乙を発音し分けるというのは本当でしょうか。




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