元の発言 [ Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月18日(水)00時49分10秒 ]
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>> 劉備や曹操が活躍した三国志の時代にも騎馬兵はおり、漢代には鐙があったと説く研究者もいる。騎馬民族のスキタイが残した紀元前の黄金製品に鐙の表現があるという見方もある。実際のところ、鐙がいつ、どこで発明されたのかははっきりしない。
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もしあったとすれば何故残っていないんですか?
三角縁神獣鏡みたいですね。
騎馬兵用だったら日本より沢山あって日本より雨の少ない中国で残らない筈はないと思いますが。
残っていない事が無かった証拠だと思います。
>> >> 北の漢人は乗馬は得意だったのではありませんか?
>> >> 南船北馬と言いますから。
>> >> 馬が苦手なのは呉人だったんでしょう。
>> その北にはもっと乗馬の得意な遊牧民がいます。
>> 胡服騎射という有名な話もあります。
>> 以下引用
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>> 樋口隆康・県立橿原考古学研究所長は「騎馬が下手な漢人が、騎乗の際の足踏み台として発明し、その後、騎馬民族にも普及した」と鋭く。
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樋口さんの言う「漢人」は呉蜀の農民の事ではないですか?
>> >> >> まず馬が伝わった最初の段階で、農耕馬が有ったでしょうか。
>> >> 私は日本ではなく中国の話をしているのですが。
>> >> 紀元前から馬は騎馬用だけでなく農耕用にも利用されていたでしょう?
>> ところが鐙はなかなか発生しなかった。
>> なぜでしょう。
>> 牛頭さんの言うように、馬に乗るときだけが問題なら、華北で乗馬を受容し始めた頃に発明されてもよさそうですが。
発明されなかった事に理由が有るんですか?発明は時の運ですから。
何故こんな簡単な事が解らなかったのだろうと後で思う事がよくあります。
>> >> 箸墓で見つかった鐙は馬が日本に来た初期のものでなく馬が大量に居た時代のものであろうと申しています。
>> 布留1時代に大量にいたなら、それ以前の布留0や庄内期にも馬はいたでしょう。
>> するともっと多くの馬関連の遺物が、布留1までの時代にあってよさそうです。
>> しかし見つかっているのが布留1の鐙の断片一つというのはどうしてでしょう。
布留1を4世紀後半とする見方もあります。
騎馬民族到来説を信じれば馬が少しずつ運ばれて日本国内で繁殖したのではなく一気に日本に来た事になります。
馬は2歳くらいで仔を生め(妊娠期間は11ヶ月)ますからある程度の数の馬が居れば急な繁殖も可能だったでしょう。
初めに数十頭の馬を導入すれば50年後には2,3千頭に増やす事も可能ですが。
>> >> 当初、鐙は梯子のような使い方で馬に乗ってからは不要なものでした。
>> >> 片足分しか必要なかったのです。出てきた輪鐙も片方分でこれと符合します。
>> まさに初期の鐙が伝わったものでしょう。
>> ところで、片方しか出てこなかったから、片方しかなかったとどうして分かります?
たしかに確定は出来ませんね。
>> 3世紀末−4世紀初頭なら、片鐙の可能性は高いとは思いますが。
>> >> >> そもそも馬を飼育できるのは、それなりの階級であったことでしょう。
>> >> 農民だって貧富の差などがあって富める者は馬を飼い、盗賊から資産を守るため武装する事もあったでしょう。
>> まるで武士ですね。
>> 時代が違いませんか。
>> この富める農民って豪族ですか。
>> であれば支配階級ですね。
戦乱の時代はそう云うものでしょう。
3,4世紀は身分の世襲制が確立していなかったと思っています。
農民の中から武士が生まれたり豪族が生まれたりしたんじゃないでしょうか?
>> >> 農民が馬を飼うことに何の不思議もありません。
>> もう少し時代が下れば、有力な土地所有者=豪族が飼育して、農民に農耕馬として使用させるということならありそうですが。
>> 農民がわざわざ鐙まで作って乗るもんでしょうか。
晋による統一が成って戦乱が収まったとき戦争に使われた馬が余り農民に馬が払い下げられるような事があったかも知れません。
元々乗馬用の馬だったら払い下げられた農民も乗って見ようかと言う気を起こしたかもしれませんね。
当然乗りやすさを考え工夫しても不思議はありません。
>> >> 前のコメントで新羅の土偶の鐙を紹介しましたが従者用は片方しかなかったと言いましたがこの事とも符合するのです。
>> >> 要するに武将の物ではないと言うことです。
>> 5世紀の新羅になると両鐙が普通のようです。
>> 牛頭さんのおっしゃっているのは以下の人形の話ですか?
>> 下記リンクの一番最後
>> http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0065.html
>> 以下引用
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>> さて,障泥を吊る帯が剥離してしまうのであれば,鐙も剥離したかもしれません。右側のように,途中で折れるのではなく,完全に剥離したとすると……という目で,改めて騎馬人物形容器の左側を見ると,鐙のあるべきところは,微妙にくぼんでいて,周囲よりも少し色が青い感じです。この部分を下に辿ると,鞍の端に刻まれた文様がかすれています。これって,縦長の粘土紐が剥がれた跡ですよね。
>> とすると,騎馬人物形土器の従者の方も左右に鐙が揃っていたことになります。前の話は何だったんでしょ(^^;ゞ。
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>> というわけで従者も両方有ったみたいですね。
そうでしたか。私の早とちりでしたね。有難う御座います。
>> 乗馬が農耕地帯に入ってくるまでに、ずいぶん試行錯誤があったことが分かっています。
>> 乗馬スタイルが決まるまでは、ずいぶんと変な乗り方もしています。
やはり誰でも乗りたいという気持ちが強かったのでしょうね。
>> ところがなぜか鐙はなかなか生まれません。
>> なぜでしょうか。
発明されなかったからです。発明されなかった事に理由は有りません。
発明された事については理由が有りますが。
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