Re: 馬が出た

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [9月25日(水)00時49分07秒]

元の発言 [ Re: 馬が出た ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月22日(日)22時42分50秒 ]

>> >> 同様の木製輪鐙は、5世紀代の渡来人の関わった官営牧場後や、祭祀遺跡から発見されています。
>> >> いずれも一般農民のものとは思えません。
>> >> 布留1のものだけ農民のものとする理由がありません。
>> >> また5世紀以降の古墳への埋葬をみれば、馬は権威の象徴と思われ、一般に普及するのはさらに後の時代と思われます。

>> 出土状況がよく判りませんが権威の象徴であればそれなりに大切に扱われた様子、例えば他の祭器と一緒に出てくるとか古墳の棺の中や
>> 近くから出土するのではないでしょうか?

そうです。
以下木製輪鐙が発見された神宮寺遺跡についてのコピー
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神宮寺遺跡は長浜市の南西部、旧市街地の南側、平方町の北部に広がる遺跡である。
姉川の支流・中島川の左岸に立地する。
これまでに下水道工事等による立会調査も含め数次の調査が行われ、古墳時代の祭祀遺跡であることが明らかとなっている。
平成4年度に実施されたマンション建設に伴う発掘調査で、建物等の遺構は検出されなかったが、川跡(旧中島川河道)から祭祀遺物など大量の遺物が出土した。
その中には、最古級の人形代、木製馬具、下駄などもあった。

参考文献 丸山雄二 「神宮寺遺跡の調査」 『滋賀考古』第9号 滋賀考古学研究会 1993.2
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蔀屋北遺跡の場合も、その属する一連の四條畷市の遺跡群自体、通常の農耕遺跡ではなく、馬に関する祭祀的な遺物が多く出ているようです。
またこの遺跡の場合、渡来人が関わったことが韓式土器から推測されており、史書とあわせて当時の官営の牧場や塩田のあった場所とされています。

>> 私の話は日本の話ではなく中国での話です。
>> ピクポポデミさんはこれまで日本の話をし、私は中国の話をしていたのではないかと思います。
>> 違いますか?

では中国の話をしましょう。
少なくとも見つかっている発生期の中国の鐙は、全て支配階級の墓から出てきました。
また、世界史的に見ても農耕地帯では、乗馬は階級と結びつき、権威のしるしです。
客観的に見て、鐙は農民のものとする理由はありません。
牛頭さんが、何が何でもそう思うと言うなら結構ですが、根拠の無いものは論争にはなりません。

>> >> 発見された輪鐙は穴の形状から北方系ではないとする説があります。
>> >> 中国の南の蛇紐金印で有名なてん国の遺跡で、前漢並行期の鐙の原型と見られるものがあります。
>> >> 鐙そのものが紀元前のインドで発明されたとされる説もあります。
>> >> インドの鐙は親指だけ、てん国の鐙はつま先だけですが、案外南方回りということもあるかもしれません。

>> インドやテン国の鐙というのは実際は何時頃か判っているんでしょうか

インドのは紀元前2世紀の彫刻、テン国のは前漢相当の銅容器の装飾としかわかりません。
ほぼ同時期で、よく似たものとされています。(私は実物は見ていません)

>> >> ちなみに後漢代の俑に鐙かもしれないものが見られるそうです。

>> インドで紀元前、後漢で二世紀くらいの伝播速度なら日本への伝播はは5世紀位が妥当ですね。

私は布留1期の鐙は、これが本当に鐙としても、中国と纒向の政権の直接交渉などによる直輸入に近いもので、
しかも、馬の繁殖、飼育、調教、乗馬などが一体となった騎馬文化はこの時点では根付かなかったのではと思います。
それが、その他の馬関係の遺物に対して、この鐙が突出して古い理由ではないかと思います。
結局、古墳中期に至って、多くの騎馬文化をもった渡来人とともに、乗馬が普及することになったのだと思います。

ちなみに、布留1式を4世紀半ばまで下げる関川氏の編年では、古墳中期の大きな出来事である、須恵器の開始をやはり半世紀下げて考えています。
したがって布留1式だけでなく、古墳中期の年代も新しくなり、布留1式の鐙が突出して古いことには変わりありません。
絶対年代の操作で、布留1式の時代と、後の馬の普及期を繋げようとすると、古墳前期の後半部分の行き場がなくなります。

>> どうして鐙がすごく便利なものならインドから中国に伝わるのに2、300年も掛かるんでしょうか?
>> 中国からヨーロッパへも4,500年以上掛かっているんですか?
>> シルクロードで頻繁な交流をしていた筈なのに。

さて、新しい技術が伝えられるとき、それが定着できるかどうかは、既存の技術体系や精神文化のなかに、どのように位置付けられるか、あるいは位置付けられないかに、大きく影響を受けると考えます。
これはなかなか簡単には解明できない部分があります。
例えば馬関係の重要な技術として蹄鉄がありますが、同時期のケルト人が蹄鉄を使っていた時期、ローマ人はヒッポサンダルという、金属製の履物を履かせていたと言います。
日本に至っては、明治維新まで蹄鉄は普及しなかったようです。

以下は鐙についての極私的な思いつきです。
年代などは極めていいかげんです。

インドでは像のような大きな動物に乗るときに、腹帯などに足をかけて乗る習慣があった。
インドに騎馬が普及したとき、やはり最初は腹帯に足をかけたかも知れない。
西方遊牧民から紀元前に硬い鞍が伝えられると、腹帯に代わって、鞍からぶら下げ足先を引っ掛ける小さな輪を使うようになった。
この技術は騎馬文化の極度に発達した、インド北方の遊牧社会や、西方のペルシャなどには無用の長物として定着することがなかった。
この鐙の前身と言うべき小さな輪は、他のインド文化同様南アジアに伝わり、やがて中国にも紀元前には伝わったが、やはり普及しなかった。
一方ペルシャでは、独特の重装騎兵の文化が現れ、これが鐙を欠いたまま成立し、西方では後期ローマ帝国にも伝わった。
重装騎兵の発想はシルクロードを通して、紀元後の中国にも伝えられ、騎兵の運用方法が変わってきた。
中国では騎兵が重装備になるにつれ、埋もれていた発想である小さな輪が脚光を浴び、紀元後から三世紀のいつか、乗馬時の便利な道具として片鐙が成立した。
片鐙はそもそも軽装の北方遊牧民には全く普及しなかったが、4−5世紀以降、中国社会およびその影響下にある農耕社会では普及し発展をとげた。
やがて両鐙がうまれ、馬に乗るときばかりでなく、乗馬した状態でも活用するようになり、乗馬術自体も変化した。
成熟した乗馬技術となった鐙は、6世紀以降になると、ついに遊牧民の心をもとらえ遊牧社会に鐙が普及した。
遊牧民に普及した鐙はシルクロードを一気に抜けて、7世紀にはヨーロッパにも達した。
その当時のヨーロッパはフランク王国の発展期であり、フランク族は歩兵を重視していたため、なかなか鐙の普及は進まなかった。
むろんもともとゲルマン民族には、古くはゴート族のように騎兵を使いこなす人々もいたが、
ペルシャ回りで古くから伝わった、鐙を欠いて形成された重騎兵の文化がネックになった可能性もある。
しかしついに8世紀のツールポワチエの戦いで、騎兵の重要性が認識されると、騎兵の養成が進み、遅れて鐙の普及が始まった。




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