元の発言 [ Re: 訂正の訂正 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月28日(土)03時05分00秒 ]
>> 残っている馬具はほとんど金属製でしょう。
いいえ。5世紀の物で残っているのは木芯鉄巻きが多いようです。
しかもそれは5世紀後半らしい。
木の芯に磨耗防止の鉄の薄板を巻いた物です。
木部も残っていると思います。日本のものではないですが
http://japan.koreainfogate.com/japan/museum/sankoku/sankoku-gaya10.php3
に木芯鉄板張輪鐙の写真があります。
>> 初期の鐙が木製なら偶発的に、湿った土の中に密閉されたケースを除いてほとんど残らないでしょう。
>> 実際残っている木製鐙は、偶発的に土に埋まったもののようです。
5世紀後半の古墳にあるのが木芯鉄板張です。
前半は馬具はあっても鐙は鉄板を巻いていない物すらない。
この時期に木製鐙があったとすればそれは権威にならない、権威の不要な人間の使用する物だからではないか、と考えた訳です。
>> そもそも馬が権威の象徴であるという話をしていたはずです。
>> 初期の鐙が実用品で、副葬が遅れたとしても他の馬具が副葬されているなら、馬は権威の象徴と見るのが妥当ではないですか。
馬は権威の象徴であった事に異存はありませんが、実用馬もいただろうと思っています。
例え庶民の持ち物でなくとも荷駄用の馬がいてもおかしくない。
荷駄用の馬を上流階級(日本では朝廷が一括管理していたかも)から預かって、預けられた庶民がその馬に乗ってもかまわないと思います。
そのために鐙を使った。
韓国では5世紀前半から木芯輪鐙が存在していたようですがそれ以上遡っての発見は無さそうです。
まして3世紀とは。
卑弥呼の頃馬のいなかった日本で韓半島より早く輪鐙が来るとは考えられません。
>> >> それが硬式鞍であるという確証はないのでしょう?「前後に盛り上がりが見られる」程度のものだったのでは?
>> >> 軟式鞍というのは多少の補強がなされて少し前後の盛り上がりはあっても鐙が付くようなものではないそうです。
>> >> 下の訂正了解しました。
>> いやそうではなくて、テン国や紀元前のインドのもの、それと中国の初期の片鐙などは、馬に乗るときのためのもので、これは軟式鞍でも大丈夫でしょう。
>> 実際テン国や紀元前のインドには硬式鞍は無かったでしょうし。
>> 硬式鞍が必要なのは、乗馬した状態で足をかける両鐙になってからでしょう。
>> 乗馬した状態で足を掛ける、現代と同様の鐙の使い方では、騎乗者の尻の位置(鞍の居木)と鐙の距離関係が
>> 一定である必要があります。
>> 軟式鞍では、鞍がゆがみ正しい位置関係は保てないでしょう。
>> しかし乗馬時の足掛けなら、軟式鞍であっても問題はありません。
硬式が必要であるという趣旨は乗るときに片側に体重を掛けたときに鞍がずれて落ちてしまうと言う事です。
軽い人で50k、重い人で80kg、もし鎧をつけたら100kgを越すかも知れません。
片側に全体重が加われば軟式鐙では馬の背から落ちてしまう事は請け合いです。
>> >> テン国は裸足で生活していたのでしょうか。それとも馬に乗るときだけ裸足になったのでしょうか?
>> >> 子供だけの練習用だったのかも。子供なら裸足でいても不思議は無いですから。
>> >> 体重も軽いし軟式でもよかったかも。
>> 子供なんぞどこにも出てきませんよ。
体重が軽ければ片側に体重を掛けても鞍がずれない可能性があると言う事です。
それに子供なら裸足で生活していてもおかしくはないですが大人が裸足と言うのは。
倭人は裸足でしたっけ?
>> >> 木製鞍は5世紀以降のものも殆んど残っていないと思います。鞍も飾り金具などでその存在を推測するのみです。
>> >> 檜や槇で作ってあれば多数残ったのでしょうが。腐りやすい木をつかっていたのではないでしょうか。
>> そうですか、荷物用はたくさんあったのに木製なので残っていないというわけですか。
>> 一方で乗馬用の木製の鞍などは、4世紀中葉からしか残っていないので、それ以前にはなかったというわけですね。
>> 荷物ようについては、そういう用法をした、絵も人形の類も残っていないのですよ。
荷駄用の馬などは権威の象徴ではなかったからでしょう。
それに木製鞍の材料はできるだけ軽い木をつかったでしょうから腐り易かった可能性がありますね。
>> 現時点での出土例では、明らかに片足鐙の発想は古いものであることが事実として残っています。
それは解りました。
>> 判るのは親指だけでなく足を入れる片足鐙は、西晋の時代以前のいつ頃からか現れたという程度でしょう。
>> 後漢代の俑もありますし、時代的にはそれほど限定できません。
かも知れないと言う程度の絵や彫刻では簡単に同意できません。
>> 残された事実のみから見ると、鐙が先行し、両足の本格的な鐙の登場と、硬式鞍の登場が同期するようです。
>> 鐙が単なる馬に乗るときの足掛けから、乗馬時にバランスを取る道具に変わろうとしたときに、硬式鞍が現れたように見えます。
これは上述のような考えから賛成できません。
>> この両鐙の時期はどうも、発見された4世紀中葉からそう大きく離れないように思います。
>> それでも4世紀中葉の墓に俑として入れられたのなら、発明は3世紀末葉まで遡ってもおかしくないように思います。
まあ、3世紀末に発明されても良いですが、それが同時に日本に来た事にしないと箸墓から出た鐙が説明できないでしょう?
無理があると思いませんか?
2、30年の時間差を置いて考えれば4世紀前半で箸墓が3世紀中葉の墓であるとする事は無理だと最初から言いつづけています。
>> 現実に硬式鞍が生まれる前に、インドや南部中国に、片足だけの馬に乗るための道具があるのだから、これは成り立ちません。
>> それとも紀元前に硬式鞍が有ったのでしょうか。
軟式鞍で鐙を使った可能性は否定しません。
軟式鞍でも大丈夫な人は体重の軽い人の為専用だったかもしれません。
中国では実用にならない代物だったのかもしれません。
>> >> >> いずれにせよ硬式鞍もまた鐙同様、その始まり年代を数十年単位で推定できるほどの資料はないと考えられます。
>> >> 確かに10年単位の年代は難しいですが日本の遺跡で推定した年代より中国の年代の方が史書があるだけに正確と言えるでしょう。
>> 見つかった遺物の年代が確定できても、その遺物が極めてまれで、302年埋葬墓に一個、340年埋葬墓に一個という状況では、それが最初に生まれたのがいつか漠然としかわかりません。
西晋の時代に西晋の中国統一後、南部では騎馬の苦手な人が多かった為(南船北馬と言われている)中国の南部で発明されたとと言うのが定説だったと思います。
定説に従えば270〜300年の間と言うのが最も妥当でしょう。
>> 極端に数の少ない初期の鐙の場合、それをもって年代を決めるのは大変むずかしいでしょう。
>> 実際に年代のわからない遊牧民の遺跡の年代を、鐙の有無で決めた例があるようですが、だいたい何世紀かというような、100年掴みの話です。
>> したがって、箸墓の鐙のみで布留1の年代を決めるとしたら、3世紀から4世紀のどこか、あるいはそれ以降というぐらいにしか言えません。
箸墓の鐙のみで布留1の年代を決めるとしたら、早くても300年以降でしょう。
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