Re: 馬が出た

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [9月25日(水)20時23分11秒]

元の発言 [ Re: 馬が出た ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月25日(水)00時49分07秒 ]

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>> 神宮寺遺跡は長浜市の南西部、旧市街地の南側、平方町の北部に広がる遺跡である。
>> 姉川の支流・中島川の左岸に立地する。
>> これまでに下水道工事等による立会調査も含め数次の調査が行われ、古墳時代の祭祀遺跡であることが明らかとなっている。
>> 平成4年度に実施されたマンション建設に伴う発掘調査で、建物等の遺構は検出されなかったが、川跡(旧中島川河道)から祭祀遺物など大量の遺物が出土した。
>> その中には、最古級の人形代、木製馬具、下駄などもあった。

>> 参考文献 丸山雄二 「神宮寺遺跡の調査」 『滋賀考古』第9号 滋賀考古学研究会 1993.2
>> ***************************************************

>> 蔀屋北遺跡の場合も、その属する一連の四條畷市の遺跡群自体、通常の農耕遺跡ではなく、馬に関する祭祀的な遺物が多く出ているようです。
>> またこの遺跡の場合、渡来人が関わったことが韓式土器から推測されており、史書とあわせて当時の官営の牧場や塩田のあった場所とされています。

蔀屋北遺跡のものを見たんですがやはり使い古して壊れたもののようですね。
塩田に使われた塩汲みの容器を運ぶ馬に使われたのではないでしょうか。

神宮寺遺跡も蔀屋北遺跡も五世紀後半から六世紀初めくらいの遺跡らしいですね。
箸墓の輪鐙が3世紀末だとすると200年くらいの差が出ます。
200年もの間何の進化もせずに使われたのでしょうか?

起伏の多い日本では馬は軍事的に利用価値はなく荷物運びのため位にしか使われなかった。
一方、貴族用などは権威付けの為に利用されるので装飾が施されなければならない。

一方古墳から副葬品として他の馬具と一緒に出るのは大抵、木芯鉄巻きか鉄の鐙で一線を画しているように思えます。
箸墓の鐙は一般用(必ずしも農民とは限らない荷駄用)の馬の可能性が高いのではないでしょうか。

>> では中国の話をしましょう。
>> 少なくとも見つかっている発生期の中国の鐙は、全て支配階級の墓から出てきました。

それは4世紀のものですよね。そしてそれは中国南部で見つかったんでしたよね。
発生期の中国の鐙が4世紀であればそれが日本に伝播するのはもっと遅くなるでしょう。
そして日本の発生期の物は天皇陵の石室の中にあるのではないでしょうか?
日本には多分荷役用の馬と貴族用が同時に渡来したのでは?

>> また、世界史的に見ても農耕地帯では、乗馬は階級と結びつき、権威のしるしです。
>> 客観的に見て、鐙は農民のものとする理由はありません。

鐙が権威のしるしであれば他の馬具と同じくらい多数、馬具と一緒に出てくる筈だ。
極端に少ない鐙は権威の象徴ではない。だから4世紀の鐙は少ない。と考えるのです。

>> 牛頭さんが、何が何でもそう思うと言うなら結構ですが、根拠の無いものは論争にはなりません。

どちらにも決定的な根拠はないと思います。感覚の問題でしょうか。

孫引きですが「脾肉の嘆」というのが馬に乗ることをやめた結果太ももに肉が付いてしまったと言う劉備のの嘆きは「普段は鐙を使わず馬に乗っていた事を意味する」と言う話も。

ある論文で硬質鞍の発明も中国で4世紀の事だと書いてあるのを見たことがあります。
多分4世紀の鞍用金具の発見によるものだと思います。
発見されていないから無かったとは言えない、とおっしゃるのであれば私もそれ以上言うことはありません。

>> >> インドやテン国の鐙というのは実際は何時頃か判っているんでしょうか

>> インドのは紀元前2世紀の彫刻、テン国のは前漢相当の銅容器の装飾としかわかりません。
>> ほぼ同時期で、よく似たものとされています。(私は実物は見ていません)

埴輪の彫刻くらいはっきりしていると判るんですがどうなんでしょう。

>> 私は布留1期の鐙は、これが本当に鐙としても、中国と纒向の政権の直接交渉などによる直輸入に近いもので、
>> しかも、馬の繁殖、飼育、調教、乗馬などが一体となった騎馬文化はこの時点では根付かなかったのではと思います。
>> それが、その他の馬関係の遺物に対して、この鐙が突出して古い理由ではないかと思います。
>> 結局、古墳中期に至って、多くの騎馬文化をもった渡来人とともに、乗馬が普及することになったのだと思います。

>> ちなみに、布留1式を4世紀半ばまで下げる関川氏の編年では、古墳中期の大きな出来事である、須恵器の開始をやはり半世紀下げて考えています。
>> したがって布留1式だけでなく、古墳中期の年代も新しくなり、布留1式の鐙が突出して古いことには変わりありません。
>> 絶対年代の操作で、布留1式の時代と、後の馬の普及期を繋げようとすると、古墳前期の後半部分の行き場がなくなります。

土器編年を10年くらいづつ詰めれば良いのでは?失礼。

>> さて、新しい技術が伝えられるとき、それが定着できるかどうかは、既存の技術体系や精神文化のなかに、どのように位置付けられるか、あるいは位置付けられないかに、大きく影響を受けると考えます。

それは理解できます。インフラが整っていなければどんな技術も続かない。

>> これはなかなか簡単には解明できない部分があります。
>> 例えば馬関係の重要な技術として蹄鉄がありますが、同時期のケルト人が蹄鉄を使っていた時期、ローマ人はヒッポサンダルという、金属製の履物を履かせていたと言います。
>> 日本に至っては、明治維新まで蹄鉄は普及しなかったようです。

乗馬そのものが日本では必要がなかった。狭い日本で馬を一日中乗り回す事などないから。
蹄鉄打つどころか爪きりをしてやらないといけなかったかも。

>> 以下は鐙についての極私的な思いつきです。
>> 年代などは極めていいかげんです。

>> インドでは像のような大きな動物に乗るときに、腹帯などに足をかけて乗る習慣があった。
>> インドに騎馬が普及したとき、やはり最初は腹帯に足をかけたかも知れない。
>> 西方遊牧民から紀元前に硬い鞍が伝えられると、腹帯に代わって、鞍からぶら下げ足先を引っ掛ける小さな輪を使うようになった。
>> この技術は騎馬文化の極度に発達した、インド北方の遊牧社会や、西方のペルシャなどには無用の長物として定着することがなかった。
>> この鐙の前身と言うべき小さな輪は、他のインド文化同様南アジアに伝わり、やがて中国にも紀元前には伝わったが、やはり普及しなかった。
>> 一方ペルシャでは、独特の重装騎兵の文化が現れ、これが鐙を欠いたまま成立し、西方では後期ローマ帝国にも伝わった。
>> 重装騎兵の発想はシルクロードを通して、紀元後の中国にも伝えられ、騎兵の運用方法が変わってきた。
>> 中国では騎兵が重装備になるにつれ、埋もれていた発想である小さな輪が脚光を浴び、紀元後から三世紀のいつか、乗馬時の便利な道具として片鐙が成立した。
>> 片鐙はそもそも軽装の北方遊牧民には全く普及しなかったが、4−5世紀以降、中国社会およびその影響下にある農耕社会では普及し発展をとげた。
>> やがて両鐙がうまれ、馬に乗るときばかりでなく、乗馬した状態でも活用するようになり、乗馬術自体も変化した。
>> 成熟した乗馬技術となった鐙は、6世紀以降になると、ついに遊牧民の心をもとらえ遊牧社会に鐙が普及した。
>> 遊牧民に普及した鐙はシルクロードを一気に抜けて、7世紀にはヨーロッパにも達した。
>> その当時のヨーロッパはフランク王国の発展期であり、フランク族は歩兵を重視していたため、なかなか鐙の普及は進まなかった。
>> むろんもともとゲルマン民族には、古くはゴート族のように騎兵を使いこなす人々もいたが、
>> ペルシャ回りで古くから伝わった、鐙を欠いて形成された重騎兵の文化がネックになった可能性もある。
>> しかしついに8世紀のツールポワチエの戦いで、騎兵の重要性が認識されると、騎兵の養成が進み、遅れて鐙の普及が始まった。

仮説として承っておきます。

木製鞍について考えてみました。
私は木製鞍はむしろ荷物を運ぶ馬の為に開発されたのではないかと思います。
重い荷物を縄で縛って両側にぶら下げたとき鞍が柔らかいと重みが一点集中してしまい皮膚を痛めます。
硬い材質であれば重量が分散し痛くありません。しかも安定がよくなる。
鞍の使用により荷物を高く積む事もできるようになった。
それを騎乗に応用して人間用が出来た。
それに鐙をぶら下げたと言った感じではないか。
人間の尻だけなら馬の皮膚にダメージを与える事は無いので木製鞍は必要なかった。




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