元の発言 [ Re: ちと反論と言って良いかどうか? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月11日(木)23時50分04秒 ]
オヤジッチさん、こんにちは。暑いですね。
> 九州の弥生中期前半には当時の灌漑技術で水田化できる平野部は開墾されてしまって、条件の悪い土地に湧水をためる「ため井」まで作って水田を作らざるを得なかったと考えられますが、
> 私としては、豊富な食料があったのに飢饉の危険性がある単一作物に固執したのは「なんで?」と思うんですネ。
> 渡来人が無理やり作らせたんだという人もいますけど、どうなのかナー?
ほんとうに、そこら辺が、なんだか。
縄文時代からコメはあったのだから、コメの味は知っていたでしょうし、水稲農耕で良いコメがたくさんとれるようになったといってもコメだけを食べていたはずもないのに。
それに水稲で出来高にこだわれば水争いも生まれるだろうし、実際戦争も始まったし。いいことなんかないようにさえ思えます。
水稲農耕技術セットを携えた渡来人がまず北部九州に上陸して、水稲を始めたのだというのすが、その人達はどこから来たのですか?
中公文庫「日本の古代4 縄文・弥生の生活」はじめ、多くの本に朝鮮半島から来たと書いてあります。
しかし、水稲農耕は江南で始まりました。江南から朝鮮半島も九州も等距離です。
当時、国境があったわけではなく、人は行き来していただろうと思います。
水稲農耕技術が半島経由で入ってくるというのは空間と時間軸を無視しているように思えます。
弥生時代の特徴は稲作の普及と金属器の使用だといいますが、このふたつは本当に一緒だったのでしょうか?
水稲農耕導入と青銅器導入は別々だったのではないかと思い始めているのですが。
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