元の発言 [ Re: ちと反論と言って良いかどうか? ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 7月12日(金)01時22分24秒 ]
>> オヤジッチさん、こんにちは。暑いですね。
はい、あっつい!です。
>> それに水稲で出来高にこだわれば水争いも生まれるだろうし、実際戦争も始まったし。いいことなんかないようにさえ思えます。
私は、同一水系には同一系統の村があったと思っています。そうじゃないとおっしゃるように水争いが起きます。
那珂遺跡〜板付遺跡〜須玖岡本遺跡群などは母村、子村の関係だったのではないでしょうか。
最も古いのは那珂遺跡で、須玖岡本は谷水田に近い地形で、収穫量が少なかったから青銅器工房が生業になったんでしょう。
>> 水稲農耕技術セットを携えた渡来人がまず北部九州に上陸して、水稲を始めたのだというのすが、その人達はどこから来たのですか?
>> 中公文庫「日本の古代4 縄文・弥生の生活」はじめ、多くの本に朝鮮半島から来たと書いてあります。
>> しかし、水稲農耕は江南で始まりました。江南から朝鮮半島も九州も等距離です。
>> 当時、国境があったわけではなく、人は行き来していただろうと思います。
今年の春日市市民歴史講座のテーマは「日本人の源流をさぐる」です。
先週の金曜日が「骨から日本人の起源を考える」(中橋孝博・九大教授)でした。
骨から見ると、弥生渡来人は江南系だということでした。
でも、考古資料は全て韓半島を示しています。
同時代の韓半島人が江南系だったかどうかが判ると良いんですが、それまでは謎のまま。(^。^)
もう一つ謎が、韓半島系で水稲耕作と一緒に弥生渡来人が持ち込んだといわれている支石墓の葬られていた人骨は縄文系だそうで、
中橋先生いわく「なかなか商売の種がつきません」ってことで。(*^。^*)
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