元の発言 [ Re: ちょっと反論? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月16日(火)21時28分32秒 ]
>> >> > 九州の弥生中期前半には当時の灌漑技術で水田化できる平野部は開墾されてしまって、条件の悪い土地に湧水をためる「ため井」まで作って水田を作らざるを得なかったと考えられますが、
>> >> 水稲農耕技術セットを携えた渡来人がまず北部九州に上陸して、水稲を始めたのだというのすが、その人達はどこから来たのですか?
>> 考古資料では水稲農耕は灌漑と農具から住居(松菊里式)までセットで入ってきています。
>> 山崎純男氏(福岡市教委)によれば「弥生渡来人は全てを持ってきた」(技術から階級、戦まで)と言うことなので、金属器も当然含まれるでしょう。
ストップ。
でもナ畑など縄文末期の水稲遺跡は、縄文人も関わっている様ですし。
吉野ヶ里から少しはなれた遺跡では、縄文人と渡来人が同じ場所に、
それぞれの流儀で、埋葬されている、遺跡があるとも聞いてますが?
その他発言: