元の発言 [ Re: 布留(畿内は倭人の国ではない) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 11月4日(月)02時05分23秒 ]
>> >>応神天皇(神功皇后)は現に畿内を攻略したのだし、そのころから馬の痕跡が急に増える訳です。
>> >>百済から馬が泳いで来るわけも無く人が連れてきたのでしょう。
>> >>馬を運ぶのは大事業ですから倭韓の協力無しには出来ません。
>> >>そして馬に慣れた人がリーダーシップを取らなくてはなら無いでしょう。
>> 記紀によると,それは倭国内部の勢力争いです。
>> 神功皇后の伝承は,倭国が新羅を攻めて馬飼にした,というものであり,
>> 敗れた新羅に課せられた役目こそが,
>> 大船団を組んで倭国に馬を調達することであった,となります。
>> 恐ろしい程の軍事力を有しないと難しいことであろうから,
>> この伝承は眉唾ではないか,倭国のほうが攻め込まれたのではないか,
>> と推理したくなるのは分かりますが,
>> 好太王碑文は,ある程度,記紀の内容を証明していることになります。
神功皇后の年代を4世紀末と考えていいのですね?
好太王碑文によれば倭を打ち破ったのですから、紀の記述とは逆に負けて韓半島から逃げ帰った事になります。
神功皇后と一緒に伽耶の住民も大勢逃げてきたでしょう。東夷伝に寄れば弁辰の人々は牛馬に乗ると書いてありこのとき初めて馬が日本にもたらされた可能性が大ですね。
この人々が九州の倭人と共に東征したのが神武、応神天皇の大和攻略の記述であろうと思っています。
>> >>倭は鉄を手に入れるため伽耶に駐屯くらいはしていたでしょう。
>> >>倭が韓を侵略していると言いがかりをつけて戦いを仕掛けたのでは?
>> >>高句麗側の侵略の口実ではなかったでしょうか?
>> はい。好太王碑文は,あくまで高句麗史観に立ったものでしょう。
>> 日本の古伝承の一つによると,定かではありませんが,
>> 先に新羅などの半島勢が熊襲と結託して倭国を荒らしていたものか,
>> ということになります。
>> 仲哀天皇は敵を熊襲と想定したが,その背後に新羅などの半島勢あり,
>> というのが神功皇后の従った神託の真意だった,ということになります。
>> ひょっとすると仲哀派は,新羅と一戦構える気がなかったのかもしれません。
>> おそらくは,スサノヲ伝承なども連想されるのではないでしょうか。
>> つまり,倭国(高天原)を荒らしたのは,
>> さては半島の馬派と組んだスサノヲ類型の人物か,とかの推理として。
>> >>クマはインド(タミル)語という可能性はないですか?
首露王の奥さんがインド人だったと言う伝承と倭の狗奴(クマーラ)の関連なんかも面白いと思いませんか?
インドと九州、韓国ってヒマラヤ山脈を越えると長江で上海まで河を下って海流に乗ればすごく近いです。
一昨日たまたま町で見つけた「クマーラ」と言う言葉はヒンドゥー教ではかなり重要な神の名前のようですね。
「クマーラ」で検索したら
男の子、女嫌い、戦いの神、インドから旅をした(世界一周)などのキーワードが出てきました。
狗奴の男王卑彌弓呼と被るところがある?
男である。卑弥呼(女)が嫌い。邪馬台国との戦争 ・・・など。
>> その件については分かりませんが,ついでに書いておくと,
>> 岩波版日本書紀(二)の補注9-九に,
>> 「高麗」を「コマ」と呼ぶことについての鮎貝説があり,
>> 馬韓の乾馬国を魏略逸文には「古満国」に作ることから,
>> この「古満国」にちなんで「コマ」の呼び名になったのではないか,とあります。
>> 下戸遺伝子の件については,南九州が酒豪肌となると,
>> 水野説には若干不利な結果ですね。不成立もしくは,説明か修正が必要となります。
馬韓の乾馬国と高句麗を結びつけるのは無理かと。
>> >>首露王も金の箱に入ってましたね。(^^)
>> はい。どういう背景かと言うと,
>> 首露王伝承の場合,鳥越説によると,「布に包まれた箱」に謎があり,
>> これは卵生神話の名残と考えられることから,
>> 出自を倭族(中国雲南系)と推定しています。
>> 鳥越説では,この倭族(中国雲南系)は,縄文晩期に朝鮮半島を渡って,
>> 日本に渡来した,ということになっているそうです。
>> と,このように考えるならば,同族と推定の余地はあるかもしれません。
倭族(中国雲南系)の話は私も賛成したいです。インドともヒマラヤを介して繋がっています。
日本語とネパール語の類似関係は1300語もあるとか、何かで読みました。
雲南系がヒマラヤを越えたものかインド系がヒマラヤを越えたのかは定かでありませんが首露王の奥さんの話なども信憑性がありそうな解説がありますし。
>> >>神仙思想も道教(太平道、五斗米道)の始まりが2世紀くらいだとすると
>> >>紀元前後の遺跡から発掘されたものが神仙思想と理解するのは無理でしょう。
>> いえ,徐福くらいは想起しないとまずいでしょう。
>> 次のような道教観のサイトを見つけました。
>> だいたい以下のような時代背景ではないですか。
>>
>> -----------------------------------------------------------------------------
>> 1、方仙道・黄老道と巫鬼道
>> http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-1.htm
>> 早く春秋戦国時代には、百家が乱立している中に神仙家という一派があった。《漢書
>> ・芸文志》には、「神仙者は、性命の真を保つことによってその外を探し求める者で
>> あり、意を清めるだけで心を落ち着かせ、死生の域を同じにし、そして胸中にはびく
>> びくするものがない」と書かれている。
>> 《漢書・郊祀志》の記載によると、谷永は皇帝に次のように述べている。「秦の始皇
>> 帝は初めて天下を統一すると、神仙の道を願い、海外に仙薬を求めて徐福・韓終に多
>> くの童男女を同行させ派遣しました」
>> 秦・漢の時代の方仙道の活動をまとめてみよう。その活動の一つ目は、長生不死の神
>> 仙説を伝播し創造したことである。
>> -----------------------------------------------------------------------------
徐福は上陸したという伝説は各地にあります。和歌山にも。
しかし、畿内の遺跡に中国伝来の遺物はないと思います。
僅かに土器に線刻された中国の宮殿を思わせる建物の絵と大型船かも知れない絵でしょうか。
絵そのものは非常に幼稚で中国人が書いたとは思えません。
中国人が3000人(100人位でも)も来たらもっとはっきりした痕跡を残していそうな物です。
>> >>「禹余糧」などと言い出すほうがおかしいような気がします。壷石、袋石として
>> >>珍重されていたと考えるべきです。
>> >>少なくとも薬ではないですよね。
>> 日本の名産だったのかもしれません・・・。
弥生時代に禹余糧の理解があったとして大型銅鐸を生み出した精神構造とどのように結びつくのかと言う点に疑問を感じます。
私は大型銅鐸を畿内で生み出したのはどちらかと言えば閉鎖された状況で外来情報が少ないために起きたと考えます。
日本が独自文化を花開かせたのは鎖国に近い状況の平安時代や江戸時代です。
弥生時代から日本の名産であり、魏の時代にも貴重な仙薬としてあったものなら倭人伝に記載されない筈は無いと思いますが?
その他発言: