元の発言 [ Title(承前)高麗が原 ] お名前 [ 牛頭 ] 日付 [ 12月24日(火)18時31分06秒 ]
>> 読みにくくなってきたのでこちらでやりましょう。
えっ?
黄泉に行きたくなったのでコックリさんしましょう?
# す,するどい!
>> 外国の文献によると(好太王碑文、倭王武の上表文など)倭国は度々高句麗と戦争をしているのに紀記ではその事を書いてないですよね。
>> 新羅と戦ったことは神功皇后や持統天皇などの戦が書いてある。
>> 普通なら高句麗に敵対心を燃やしている筈なのに大和朝廷は高句麗に敵対心を持っていない。
???
その件,以前にも書き込んだけど,雄略紀とかに対高麗戦とかあるでしょ。
次のサイトでもいいけど,まず膳臣の伝承。雄略八年。
福井県産学官情報交流ネットワーク
古代の文献と考古学
http://kouryu.pref.fukui.jp/research/m/m_3.html
あるいは,雄略二十三年前後。安致臣と馬飼臣らの伝承。
「筑紫の安致臣・馬飼臣等,船師を率ゐて高麗を撃つ」(岩波版日本書紀)
>> 高句麗と戦った倭国はやはり畿内政権ではないと考えた方がよくなる。
>> 遂には九州王朝説にたどりつくのかな?くわばら、くわばら。
???
安致臣と馬飼臣とは筑紫だが,ということなんでしょうけど,
膳臣らの場合は,日本海側と吉備の勢力についての議論がありますね。
>> [牛頭] 『高句麗の穀母神を祀る東盟祭の「大穴」に類似している・・・。
>> いや畿内説の方から畿内は邪馬台国ではないという証拠を出してくれる事はよくあります。
その件なんですが,その石野氏による言説の根拠,
または推理であるなら推理として妥当なのかどうか,
ただ言ってみただけなのか,そこから検討しないとダメ。
>> 物品は簡単に運んで来れますが言葉を運ぶのは難しいです。
>> それでも固有名詞、普通名詞は割合物に付いて移動する事もあるでしょうが、数詞は人の移動無しに移る事は考えられません。
だから,「倭人」が「半島」で使っていた言葉の可能性があるわけでしょ。
>> 『多大山深谷、無原澤。隨山谷以爲居、食澗水。』
>> で寒冷地帯の山の上の国が稲を栽培していたとは考えられません。
>> 高句麗を「こま」と呼ぶのは何故かというと高句麗は檀君伝説でトーテムが熊だったからという説もあるようです。
>> 韓国では熊を「コム」と言うそうです。こちらの方が「狗トーテム」よりは納得できますね。
その辺りのことは,高句麗の歴史に関する研究として,
いろいろあるわけで,
ネタ元が「魏志東夷伝」と「好太王碑文」と後世の「三国史記」だけでは,
当然のことながらダメ。
最近,高句麗観がガラッと変わる波瀾ぶくみあり。
>> 『鬼神(西王母等)や霊星、社稷(土地神、后土と農業神、后稷)を祭るとされていて、中国の文化が色濃く入っています。』
>> 中国に近いのですから文化が入るのは当然です。
いえ,そんな簡単な話ではありません。例えば,岡田説流に,
華僑とか道教結社による広範かつ組織的な活動というものも想定されるので。
>> 三角縁神獣鏡の「東王父」「西王母」は高句麗経由だったりして。
時代背景としては,ちょっと苦しいんじゃないすか。
>> 九州の熊襲=狗奴国も高句麗人だった???
これは昔からある説で,種明かしは簡単です。
政治力学的の勢力関係からの推理ですから。
派閥的のもので民族そのものは関係ないかもしれないし,
逆に,部族・民族の分類としては,
高句麗以外の烏丸とか何とか,いろいろ調べるのも面白いです。
#オヤジッチさん辺りはどうでしょう?
それと,朝鮮の中ほどに居たという倭の消息。
これが確かなら,半島から日本列島に来たのは他ならぬ倭人だったとゆーことで決まり。
その他発言: