元の発言 [ Re: (承前)高麗が原 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月25日(水)22時01分00秒 ]
>> >> 一が「ハナ」とか。韓国語がどうして今の数詞になったか。
>> >> まったく独自の数詞で日本とは全く関係ないのはどうしてか?
>> >> 「はは」が朝鮮語で「オモ」と言うのは訛り、方言とされ残っているのに。
>> 考えるヒントありありですが,ま,
>> 極東の言語・語源に関する学問でも謎とされているので,
>> 手に余ります。
>> 倭人は,半島経由で来たのか,または日本列島経由で半島へ渡り,
>> ふたたび戻ってきたのか,とかの疑問も。
当然行き来はあったでしょう。
>> >> しかし、その風俗は中国の儒教道教などの影響があったとは思えないのですが。
>> >> 魏志にも以後の史書にも「淫」と書かれています。
>> >> 特に女性が性に対して奔放な事が中国人の倫理観から言って許せない事だったようです。
>> >> 日本の貴族の風俗なんかも中国人から見れば「淫」なのではないでしょうか。
>> その辺りは,大雑把な印象批判でしょうからねぇ。
>> 思想的な面では,公式でなく,また内面化もしていなかったもの,
>> とも考えられますが,それだけでは何とも分かりません。
>> # 風習そのものは,一朝一夕に変わるものではないですね。
その通りだと思います。
武家が政権とるまでは公家の妻問婚はなくならなかったでしょう。
>> それで,以後の史書である隋書東夷伝の中の「高麗」と「倭国」とでは,
>> どうなんでしょう?
>> 倭国は畿内政権のはずですが。
【晋書】「高句麗」 高句麗伝記載無し 「倭」 不淫
【梁書】「高句麗」 其俗好淫、男女多相奔誘。「倭」 不淫
【隋書】「高麗」 婦人淫奔、俗多遊女。敬鬼神、多淫祠。「倭」記載なし
となっています。
「多淫祠」ってなんでしょう?
男根とか女陰を祀った神社の事でしょうか?
倭については記載がないのは隋使は畿内まで行ってないかもしれませんね。(^^)
高句麗、高麗はすぐ近くのことなので情報が沢山入り、倭国の情報はあまり入らなかったかもしれません。
一度や二度の訪日では婚姻のあり方までは解らなかったかもしれませんね。
>> それと,妻問婚というのは普通,南方習俗と考えられているわけです。はい。
しかし農村の夜這いというのは妻問婚なんでしょうか?
こういうことは公にやっているのではなく隠れてこっそりやっていた事でしょう。
大和の妻問婚はおおっぴらにやっていたのですからかなり特殊です。
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