元の発言 [ Re: まとまらない(Re: (承前)高麗が原) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 12月30日(月)00時44分28秒 ]
>> >> タミル人が海を越えて列島まで来る理由は?
>> >> 航海技術が優れていたとしても海は危険ですからそれなりの理由が必要です。
>> 植民活動に近い交易なのかな。
>> 南インド→東南アジア→台湾,と,
>> ここまでは拡張のようすは確実のようです。
インドから東に向かうのは海流が逆なので大変ですね。マラッカ海峡も逆だし、アンダマン海、ベンガル湾も逆。
インドシナ半島あたりも北から南に流れている。
通常の沿海航法では台湾に来るのに二年以上掛かる。
帰りは一年でいいかもしれないけど。
こんな距離で交易をしたのはなにが目的だったのでしょう。
よほど欲しいものがあったんでしょうがそれはなんでしょう?
インドから船で日本に来るのには一旦赤道を越えて南を流れる赤道反流にのってスマトラとジャワ島の間を抜け、ボルネオの東側の
マッサル海峡を通ってミンダナオの東へ出て黒潮に乗る、と言う方法が労力が少なくして早く渡る方法ですか。
スピードは海流を利用できれば船の方が速いでしょうが台風や嵐で遭難する危険は陸よりは絶対に高いと思います。
>> 当時は,陸路より海路のほうが安全で確実であるとか,その他,
>> 大野晋著『日本語の起源』(岩波新書)の第223頁以降参照。
大航海に乗り出したのは安全だからではなくやむにやまれず一かばちかの大冒険だったと思います。
海路説を完全否定はしませんが確率は低そうですね。
>> 大野説では,日本への渡来を縄文晩期に限定。
そうですか。
>> 佐藤説によると,縄文時代に主として渡来したのは,
>> 東南アジア方面の熱帯ジャポニカ(畑作向け)とか。
最近の遺伝子研究で中国の熱帯ジャポニカと断定されていませんでしたか?
>> >> しかし航海能力的に九州を介さずに出来たかどうかは疑問です。
>> >> 北九州は地理的に優位に立っていますから北九州以外の地域の倭人が単独で北九州を凌駕する国が出てくる事は難しいでしょう。
>> 別に,北九州とは別とは言いません。
>> 大論争的にも,先の宗像問題と絡むのではないかとか,
>> あるいは,上陸地としての末盧国問題とか。
>> 日本神話によると,一時期,
>> 出雲・近畿方面による凌駕のあったらしいことが示唆されてはいる,
>> と考えられないではありません。
書く方の都合でしょうから。
>> >> 一つや二つ、一人や二人は漂流してくる事もあります。
>> >> すぐに交流の証とする事には慎重にならざるをえません。
>> 弥生時代における大陸文化の流入については,
>> 取りたてて目新しい主張ではないでしょう。
>> 唐古・鍵遺跡からは中国固有の水稲の品種が出ているそうです。
>> (弥生米,2200年以上前)
そう言えば弥生時代の水田は一時各地で爆発的に作られたが間もなく廃棄され、殆んどが陸稲に戻ってしまって水田が復活するのは
鎌倉時代くらいからという話を聞いた事があります。
うろ覚えで申しわけありませんが静岡??大学の先生だったと思います。
登呂遺跡の水田跡だけでなく全国の弥生水田跡を調べた結果長期に渡って使われた様子がないそうです。
と言う事は弥生文化をもたらした人々の流入も一時的、限定的なものだった可能性もあり、弥生文化は大陸の文明を受け入れた縄文人によって
築かれたのかも知れません。
水田稲作を教えたのが渡来人でも実際に水田で働くのが縄文人なら俺達のやり方でやると言われれば郷に入っては郷にしたがえだったのでしょうか。
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