読みにくくなってきたのでこちらでやりましょう。
[ちょっと一服さん]・・記紀では,ある時期以降,倭国は高句麗と親密になるので,
外国の文献によると(好太王碑文、倭王武の上表文など)倭国は度々高句麗と戦争をしているのに紀記ではその事を書いてないですよね。
新羅と戦ったことは神功皇后や持統天皇などの戦が書いてある。
普通なら高句麗に敵対心を燃やしている筈なのに大和朝廷は高句麗に敵対心を持っていない。
高句麗と戦った倭国はやはり畿内政権ではないと考えた方がよくなる。
遂には九州王朝説にたどりつくのかな?くわばら、くわばら。
[牛頭] 『高句麗の穀母神を祀る東盟祭の「大穴」に類似している・・・。このように土坑を使った祭祀方法は、後に纒向型祭祀と呼ばれ・・・、その後の纒向遺跡の調査でも幾つか発見されている。』という部分は私の畿内高句麗人説を補強してくれるものですね。
[ちょっと一服さん] 石野氏は邪馬台国畿内説じゃないすか。
いや畿内説の方から畿内は邪馬台国ではないという証拠を出してくれる事はよくあります。
[ちょっと一服さん] 運び手は倭人・倭種ではないかとゆー,そういう推理も可能か,と。
物品は簡単に運んで来れますが言葉を運ぶのは難しいです。
それでも固有名詞、普通名詞は割合物に付いて移動する事もあるでしょうが、数詞は人の移動無しに移る事は考えられません。
[ちょっと一服さん]・・高句麗(あるいは原高句麗というのかな)に,水稲があっても変ではないでしょう。
『多大山深谷、無原澤。隨山谷以爲居、食澗水。』
で寒冷地帯の山の上の国が稲を栽培していたとは考えられません。
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm#U
が見えたので一言、
『鬼神(西王母等)や霊星、社稷(土地神、后土と農業神、后稷)を祭るとされていて、中国の文化が色濃く入っています。』
中国に近いのですから文化が入るのは当然です。
三角縁神獣鏡の「東王父」「西王母」は高句麗経由だったりして。(^^)
[牛頭]・・ 今気がついた事ですが「ケーマ蓋馬」と言う名前も「コマ高麗」と言う名前を連想させますね。
[牛頭]・・ 高句麗が高麗になる前から高句麗を「コマ」と呼ぶのはケーマが元でしょうか?
[ちょっと一服さん]・・クマソだったりして。(w
高句麗を「こま」と呼ぶのは何故かというと高句麗は檀君伝説でトーテムが熊だったからという説もあるようです。
韓国では熊を「コム」と言うそうです。こちらの方が「狗トーテム」よりは納得できますね。
そして畿内には熊野がある。熊野は高句麗。
九州の熊襲=狗奴国も高句麗人だった???
その他発言: