元の発言 [ Re: サイトを紹介 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月10日(火)22時09分13秒 ]
>> 文書により,環境設定の表示でスムージングのチェックを外したり,
>> その他,いろいろと調整すると,使いやすくなります。
>> これは横書き2列なので,スクロールにコツが必要ですね。
>> 縦書きの場合,編集の良いものは,全画面表示にすると読みやすいです。
字そのものがぼけて見にくくありませんか?
>> 複雑で難解な辺りを,こなれた語り口で解説する手法に瞠目しましたが。^^;
>> 八坂神社の場合,五十猛神伝承に注目しては如何,という趣旨です。
五十猛神についてはスサノオの息子と言う以上の知識はないので「いたて」と言うことも初めて知りました。
「いたて」が作ったと言うこの刀は5世紀末か6世紀前半の銘が入っているのでスサノオも五十猛もやはり5世紀末か6世紀前半の人物
と言うことになる事を意味すると言うことですか?
そうだとすれば我が意を得たりと言うことですが。(^ ^)
>> >> >> 魏の使節は,長い道のりを,黄河から全部,船で日本に来たのであろう。(第4頁)
>> >> この説はいただけません。8世紀の話と3世紀を同列に論じている。
>> 楽浪・帯方郡と倭との重要性を説明するためで,漢〜三国時代の話です。
帯方郡を出発して韓国を歴訪しながら倭国を訪れたという魏志の記述を改訂するわけですか?
倭は帯方郡の支配下にあったのですから倭に行く為には帯方郡に寄らずにいく事も考えられないし、沿岸航路で有っても韓国を経た訳です。
直接と言うのはありえない事です。
唐の時代は新羅と仲がよくなかったからやむなく大海を直接渡ろうとして遭難が頻発したのだろうと思います。
>> >> 決して安全ではないと思いますが。
>> >> 来る時は海流に乗って、帰りに4,5月に南風が吹くのを待って帰る都合があったんでしょう。
>> >> 新羅が邪魔で沿岸航路を取れなかった為でしょうから。
>> >> もっとも畿内から高句麗に出かけた事はないと思いますが。
>> 東シナ海を渡る遣唐使が半分遭難しているのに較べ,
>> 渤海使節団の場合,200年間に50数回,日本に来ているが,
>> 冬の日本海を渡っているのに事故を起こしたのは2回くらい,
>> ということですね。
>> ですから,安全であった,ということになります。
東シナ海を渡る遣唐使の遭難は記録に残っていないものがもっと沢山あったのではないかと思っています。
唐に向かう時は沿岸航路を取らない時、海流、風向き共に逆ですから時間が掛かりその間に予測できない気象の変化にあったでしょう。
唐に比べ渤海の方は日帰りの買出し旅行くらいの気楽さがあったと思います。
帆船であれば季節風を待って行けるわけで多分、片道一週間くらいのものだったのではないでしょうか。
>> ここから,この交易ルートの持つ意味の大きさを示唆しているわけです。
畿内にとってはですね。
邪馬台国は韓国―対馬―壱岐―北九州が重要な意味があります。
>> この点,日本海側の接点となる越前・山陰などの豪族の繁栄などに話が広がるのでしょう。
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