元の発言 [ Re: 東王父・西王母では? ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 5月11日(土)20時41分25秒 ]
>>馬頭鬼さん、こんばんは。
たかとりさん、 如何も、こんばんは。レス遅れて住みません。
>>鬼道とは、やはり五斗米道のような道教の一派でしょう。
>>弥生人の原郷は江南ですから、江南のシャーマニズムの系譜をひくと思います。
江南系ですか?
一応うなずけますが、其れだけでしょうか?
朝鮮半島軽油の北方のシャーマニズム影響は?
>>福永光司『道教と古代日本』に、
>>江南の道教の基盤をなすものは、呉巫ないし呉越の巫術である。
>>『真誥』に、巫女は朱色の袴をはき、「帯に十余の小鈴をかけ」もしくは「鈴を手に握り」「鈴を振る」などと記述されている。
>>呉越の巫女の流れを汲むと見られるものは現在の日本にもたくさんある。
>>と、あります。
>>現代の神社のお巫女さんのいでたちに似ていますね。
>>卑弥呼も朱色の袴をはき、鈴を手にしていたかも知れません。
其のものズ張りですね。
ちと気になる神話を思い出します。
諏訪の枕詞、美鈴刈るです。
諏訪大社に伝わる鈴をさなぎと言うそうです。
関係無いかもしれませんが、気になります。
其れと、江南系には、ちとばかり困った風習があるようです。
人間をいけにえにする、殺人祭儀です。
首狩とも結びついているようですし、一年神主と呼ばれる風習の話が伝わっているようですし。
卑弥呼も、同じような事をやったのでしょうか?
>>祀っていたのは、やはり、伏羲と女咼、或いは東王父と西王母のような神ではないでしょうか。
>>当時、日本で、どう呼ばれていたかは分かりませんが、観念的には東王父・西王母と大きな違いはなかったのではないか、と思います。
道教自体詳しくありませんので、代表的な神ですから有得るでしょうが?
海神の可能性は無いでしょうか?
くみさん、如何も
>>紀元前136年、漢の武帝はご自身は神仙思想が好みだったようですが、政治には儒教を取り入れ、以後、20世紀まで中国の王朝は儒教を国教としていたのだそうです。
>>一方、道教には「民衆道教」と国家に公認された「教会道教」があり、後漢時代の五斗米道は民衆道教だったけれど、魏・晋時代の新五斗米道=新天師道は教会道教に格上げされたそうです。
民間宗教としては、無数なんじゃないかと思います。区別できるのでしょうか?
儒教と道教の兼ね合いでしょうか?
>>ああ、それで尚方で方格規矩鏡や神獣鏡が作られたのかと納得したり、格上げされる以前から尚方作の鏡があったかもしれない。尚方の鏡が国家が認めない道教を反映していていいのだろうか。と思ったり。調べているのですが、まだわかりません。
鏡自体道教には、あまり意味無いようなイメージがありますけど?
>>ということは、五斗米道ではない道教の一派で既に国家に認められた「教会道教」があるのでしょうから、漢鏡に神仙思想が盛り込まれていてもなんの問題もないのでした。失礼しました・・・。(アップしてすぐに気が付くなんて。)
そんな事はしょっちゅうではないですか?何時も思いますけど、どうしようもないです。
>>縄文人が日本で自然発生したわけではないのだから、どこからか多神教の人たちが移り住んで来たのだと思います。それがその「タミル地方」出身者だったらとてもわかりやすいです。
>>少し前、HNKでバイカル湖周辺から北回りで人々が来たのだといっているのを見ました。遺伝的にも近いと聞きます。困ったことですが、人の流れはひとつではなかったでしょうから、あちこちから来たというのが本当のところでしょうか。
北の信仰シャーマニズムですよね、気になるのは。
>>縄文人が多神教でヒンズー教的だったから、卑弥呼にとっても、同じ多神教の道教が受け入れやすかったのだと思っています。まだそうだと言いきれる段階ではないですけれど。
弥生人、縄文人にも幾つモノグループがありそうですが、基本的に多神教でしょうし、
ヒンズーの様にどんどん吸収していく宗教では、当然あるでしょうし。
>>>>オオゲツ姫やカグツチの神の信仰
>>東南アジア型神話だと言われていますが、大変興味深いところです。
>>古事記を書かせた飛鳥・奈良時代の支配階級は半島との結びつきがすごく強いのに、この「死体化生型作物起源神話」は半島にはないのだそうです。
>>愛宕信仰のこと、勉強になりました。
これが、結構多いと言う事は、北と南のかなりの人間が交じり合っていたということでしょうか?
縄文時代から。
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