元の発言 [ Re: 民衆的?鬼道 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 5月14日(火)05時04分43秒 ]
たかとりさん、くみさん、こんばんは。
>>>> 朝鮮半島経由の北方のシャーマニズム影響は?
>>北方系シャーマニズムも日本に入ってきたとは思います。
>>太鼓をドンドコ叩くのは北方系シャーマンの雰囲気ですね。
>>が、卑弥呼に関係しているかどうかは解りません。
>>北方系は、例えば出雲など別ルート、或いは、異なる時代の流入が考えられないでしょうか。
確かに、そうですね。
北方、特に北海道から北への交易などの内容や人の移動など判っていませんからね。
朝鮮半島の方からのは、かなりの人間の行き来が指摘されてますが北は?
北の方面は、はっきりしていないだけでかなりの交流が合ったらしい。
後の奥州藤原氏の財力の元である砂金は、北からも運ばれていたと言う説があると聞いていますし。
秋田十三湊は、国際貿易港でありました。
何時頃からかは、私は知りませんが、かなり古くからの其の元となるものがあったと思います。
>>>> 其れと、江南系には、ちとばかり困った風習があるようです。
>>>> 人間をいけにえにする、殺人祭儀です。
>>>> 首狩とも結びついているようですし、一年神主と呼ばれる風習の話が伝わっているようですし。
>>>> 卑弥呼も、同じような事をやったのでしょうか?
>>テン国の青銅器に見られる殺人祭儀は衝撃的ですね。
>>あのような祭儀が弥生時代の日本で行われていたかどうか、何とも言えませんね。
>>しかし、人柱などは後世、よくあったようですから、弥生時代にも人間を生け贄にする祭儀自体はあったかも知れませんね。
>>しかし、卑弥呼の鬼道はそれらをやめさせる方向に働いたのではないかと思います。
>>犠牲祭儀は、どちらかというと村落共同体の祭儀でしょう。
>>卑弥呼の鬼道は共同体の枠を越えた、より民衆的なものだったような気がします。
>>卑弥呼の時代以後、首のない埋葬死体はあまり見られないのではないでしょうか。
と言うか、其の時代の遺体事態が、残っているのが少ないのですから。
現在のところわからないといった方が良いかも。
>>鬼道が民衆的だったとすると、卑弥呼の殉葬記事が疑問になるのですが、この辺りどうでしょうねぇ? 殉葬記事は事実でしょうか?
古墳に関する殉葬記事も残っているのですから、有ったと考えるべきか?
平原墓では、5人ほどの殉葬が有ったのではないかと聞きましたが。
>>諏訪大社の神官密殺には私も興味を持っているのですが、よく解りませんねぇ。
>>諏訪大社は、江南の弥生系とは異なるような感じですね。
>>縄文系、或いは北方アジア系でしょうか?
縄文自体が、北と南のミックスであったら其れに半島系が、取り入れられたとも考えられますね。
くみさんどうも。
>>道教の中心が神仙思想であり、方格規矩鏡や神獣鏡の模様や銘文が神仙思想そのものなのですから、鏡は道教思想そのものによって大量生産されていたといっても良いのではないかと思います。道士が鏡を持って修行する話もあると聞きます。
成るほどそう言う事もあるのですか。
>>道教が成立する以前の初期の鏡には当てはまらないでしょうけれど、すくなくとも漢代以降は、たかとりさんのおっしゃる通りだったのではないかと思います。
なるほどね。
>>そういった意味では多紐細文鏡は違いますね。鏡ですから映すとか太陽とか、そういった思想はあるのでしょうが、中国の道教とは違うイメージです。日本にも多紐細文鏡は出土していますが、しかし卑弥呼がもらったのは魏の鏡なので、多紐細文鏡ではなかったはずです。
>>「卑弥呼の祭っていた神」ですが、多神教であれば、北方シャーマニズムや海神も取り入れていたでしょうし、その頃中国で流行っていた道教も取り入れていたのだとおもいます。どこの影響がいちばん強かったのでしょうか。
>>私も「もののけ姫」を見てそんな印象を持ちました。しかし魏志倭人伝にある卑弥呼の社会は南方系のイメージです。よくわかりません。
>>>> これが、結構多いと言う事は、北と南のかなりの人間が交じり合っていたということでしょうか?
>>>> 縄文時代から。
>>そうなんですよね。そういうことですね。なんだか難しいです・・・。
つまりは、北と南が、入り混じりあうような、何かの風習があった。
そう考えても良いかもしれません。
争いを防ぎ、異質なものの友好と交流を促す、祭りのようなものが有ったとすると。
道教ですら取りこんだ祭り其れが、鬼道であった?
これ想像ですけど。
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