元の発言 [ Re: 「宋史日本伝」における地名 ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 4月18日(木)07時32分44秒 ]
>>う〜ん、ちゃんと転記できた個所をひとつだけ見つければいいのかな?
>>時間があればやってみてもいいけど、意味があるかなあ。
#意味ないんじゃないですか?マルセの「是非調べてみてください」は人の悪い単なるチャチャです。本気になさらないでください。ゴメンナサイ
>>宋史とは違うけど、三国志では紹熙本と紹興本とでそれほど違わないということは、きちんと転記される場合もあるということでいいですか。
#「違わない」って、30か国の中で2つ(對馬國と都支國)も違ってれば、十分違っていると思いますよ。
倭人伝中で両本の異なるところは、気が付いたとこだけで、「女三國←→女王國」「重者滅其門戸←→重者没其門戸」「諸國諸國←→諸國」「黄幢←→黄憧」というのもあります。
>>(マルセ)宋史の場合より、三国志の場合は、倭人の話を音訳するという工程が一つ余計に加わるということですよ。三国志のほうがより多く間違っているというならわかりますが。
>>同国人なら文字の伝達はスムーズだろうということです。それにしても、観念的な推論だけで間違いがあったんじゃないかといっているだけですよね。
#はい? 紙に書いて渡したのですから、渡したのが異国人だからといって、同国人の場合と比べて、スムーズでないということはないでしょう。観念的な推論と仰いますが、XとYが共に正数の場合にX+Yは明らかにXより大きいですよねぇ。
>>三国志の音訳語であきらかに間違った例を出してほしいのですが。
#あんまり正確に音訳していない例なら、大月氏國王「波調(puar−dog)」=「ヴァースデーヴァ」とかがあります。カタカナで書いた「ヴァースデーヴァ」が原音にどれだけ近いかわかりませんけれど。
こういった例じゃだめって言われると、検証不能です。「沙里院あたりを発掘して、魏使がメモしてきた木簡を見つけて来い」ってことですか。
>>そんな成立年代なんて意味がないと思いますが。
#そんなことはないでしょ。新しい本が古い本を引き間違うことはありますけれど、古い本が新しい本の影響を受けて間違うってことはないのですから。他の条件に差がない場合なら、期待値として古い本のほうがより正しい可能性が高いというのは当たり前の話です。研究者の中でも常識らしいです。
例えば、http://www.jaet.gr.jp/mag/004.txt
ただ、紹興(1131〜1162年)本・紹煕(1190〜1194年)本はちょっと事情が複雑なんですよね(すっかり忘れてました!幾つかの本で確認しました)。紹熙本というのは、北宋咸平本(1003年)の重刻本らしいのですが、これの実物は現在伝わっておらず、慶元(1195〜1200年)ごろに紹熙本の復刻本らしいものが出版され、宮内庁にあるいわゆる「紹熙本」とは、実はこれらしいです。「對海」は、復刻のときの誤刻と考えるのが一番いいとは思うんですけれどね。ちょっとあやしくなってしまいましたけど。
>>どういう系譜で書写がなされて、どこで校訂を行ったかということが問題でしょう。
#こちらのほうが重要なのは確かですが、確かめる術がありません。というか、紹興本・いわゆる紹熙本の場合に具体的にどうなのか、マルセは知りません。
また、現代人のような緻密な校訂を昔のひとに期待するのは無茶でしょう。いわゆる紹煕本(だけじゃないでょうけど)なんか、脱字して、行の始まりの字がずれてても気にしてないんですよ(一行の字数を同じで書いてるのに)。
>>石田が「いわた」か「いした」かなんて、どちらか確実に判断できる問題じゃないでしょう。
>>そういう場合はどちらの可能性も考えるべきです。
#この歌を読んだ作者ははっきりしませんが、天平八年の遣新羅使の一行として雪連らといっしょに行動している人物(副使の大伴三中だと言われている)が、旅の途中の現地で歌を読んでいるのは間違いないです。自分が正に今いる場所を間違えたってことはないと思います。
いしだ郡内の「いはた」という地名だったという可能性もないとは言えませんけれど、これも相当少なさそうです。
>>「海」は上古音だとマ行なわけで「対海」=「つ(っ)ま」は「つしま」に近い。そういう対応地名があっても、誤写ですか・・・。よほど運がいいんですね。
#運がよかったんでしょうね。
ただ、直前の「度一海(tu−i6i−hai)」に引かれて「對海(tu6i−hai)」にしてしまったというのは、ありがちな誤字ですよ。同様な誤字は倭人伝中にもあります。紹興本に「其犯法輕者没其妻子、重者滅其門戸」とある部分を、いわゆる紹煕本は「其犯法輕者没其妻子、重者没其門戸」と、「滅」とする部分を前の部分に引かれて「没」と間違ってます。
それより、『紹興本のもととなった魏志、それを引用したらしい太平御覧、他の史書が悉く「對馬」としているのに、これらと別系統でこの部分が「對海」とした魏志が宋代まで伝わっていて、たまたま、咸平本の校正者なりの目に触れられて、出版当時その場所が「對馬」と呼ばれているのにもかかわらず、「對海」が単なる誤写じゃないことが直感的にわかって、「對馬」でなく「對海」の方が正しいとして採用された』というほうが、かなりラッキーだった、と思いませんか。
もっともこう解釈するなら、『「對海」とした魏志が宋代まで伝わっていて、日本の地理なんて誰も知らなかったから、別の本ではそこが「對馬」となっているのに気が付かずに、そっくりそのまま書き写した』と考えてみたほうがよいかも知れません。ただ、こうゆうことがあっては、「對海」が写本の時代からの単なる誤写にじゃない根拠がなくなっちゃいますけど。
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