元の発言 [ Re: 「宋史日本伝」における地名 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 4月21日(日)09時49分55秒 ]
>> >>宋史とは違うけど、三国志では紹熙本と紹興本とでそれほど違わないということは、
きちんと転記される場合もあるということでいいですか。
>> #「違わない」って、30か国の中で2つ(對馬國と都支國)も違ってれば、
十分違っていると思いますよ。
「對馬」−「對海」は、単なる誤写だとは考えにくいのですが、
これも誤写にするわけですか?どうやって間違うのか分かりません。
音の変化による校訂だと考えるのが、分かりやすいのですが。
(校訂者が「海」の上古音を知っていたかどうかは知りません。)
それから、「都支」は変化がないようです。
(「郡支」もあったはずですが、どこで見たかなあ。汲古閣本?)
>> 倭人伝中で両本の異なるところは、気が付いたとこだけで、
「女三國←→女王國」
これは、「三」が誤刻でしょうね。
「重者滅其門戸←→重者没其門戸」
これは、どちらかの誤刻ですね。
「諸國諸國←→諸國」
ここは、妙な間違いですね。
「黄幢←→黄憧」というのもあります。
これは、どちらも「黄幢」に読めるのですが・・・。
50字に1字の単純な誤記があるなら、2000字に40字ですが。
この10倍も見つかるでしょうか?
>> >>(マルセ)宋史の場合より、三国志の場合は、倭人の話を音訳するという工程が一つ余計に
加わるということですよ。三国志のほうがより多く間違っているというならわかりますが。
>> >>同国人なら文字の伝達はスムーズだろうということです。それにしても、観念的な推論
だけで間違いがあったんじゃないかといっているだけですよね。
>> #はい? 紙に書いて渡したのですから、渡したのが異国人だからといって、
同国人の場合と比べて、スムーズでないということはないでしょう。観念的な推論と仰いますが、
XとYが共に正数の場合にX+Yは明らかにXより大きいですよねぇ。
とくに現在だったら、日本人と中国人との間で漢字のやり取りをしたら、
同国人同士より間違う可能性は高いですよね。
音訳だったら、伝達ゲームのようにある音を繰り返し音訳しつづけたら、
やはり同じようなことが起こると思います。
(これらは実験可能です。)
>> >>三国志の音訳語であきらかに間違った例を出してほしいのですが。
>> #あんまり正確に音訳していない例なら、大月氏國王
「波調(puar−dog)」=「ヴァースデーヴァ」とかがあります。
カタカナで書いた「ヴァースデーヴァ」が原音にどれだけ近いかわかりませんけれど。
>> こういった例じゃだめって言われると、検証不能です。
「沙里院あたりを発掘して、魏使がメモしてきた木簡を見つけて来い」ってことですか。
まさかそんなことはいいませんよ。こういう例がいいのです。
「ヴァ」は「g」で代用しているのかもしれませんが、
「ス」が対応していないですね。
これはぜひ調査するべき問題だと思います。
「般若」がサンスクリット語の「プラジュニャー」の音訳と聞いた時には、
あまり合ってないなあと思ったのですが、実はパーリ語のパンニャーの音訳なんですね。
こういったことがあるので、慎重になってしまいます。
他には、東夷伝にある音訳語で調べるのが早そうですが、対応が付かないので
難しいということでしょうか。
>> >>そんな成立年代なんて意味がないと思いますが。
>> #そんなことはないでしょ。新しい本が古い本を引き間違うことはありますけれど、
古い本が新しい本の影響を受けて間違うってことはないのですから。他の条件に差がない場合なら、
期待値として古い本のほうがより正しい可能性が高いというのは当たり前の話です。
研究者の中でも常識らしいです。
「影響を受けていれば」ということではないでしょうか?
もし同じ系譜であれば、もちろん古い方がより正確でしょう。
このあたりは異同を調べれば、分かるかもしれません。
ただ、新しいものでもより古い写本から転記すれば、
相対的に正確な写本になってしまいますよね。
>> ただ、紹興(1131〜1162年)本・紹煕(1190〜1194年)本はちょっと事情が
複雑なんですよね(すっかり忘れてました!幾つかの本で確認しました)。
紹熙本というのは、北宋咸平本(1003年)の重刻本らしいのですが、
これの実物は現在伝わっておらず、慶元(1195〜1200年)ごろに紹熙本の
復刻本らしいものが出版され、宮内庁にあるいわゆる「紹熙本」とは、
実はこれらしいです。「對海」は、復刻のときの誤刻と考えるのが一番
いいとは思うんですけれどね。ちょっとあやしくなってしまいましたけど。
「紹熙本」では「海」を使っているということから、あまり手を加えてない
という印象があります。もちろん、他の部分を調べてからの話ですが。
>> >>どういう系譜で書写がなされて、どこで校訂を行ったかということが問題でしょう。
>> #こちらのほうが重要なのは確かですが、確かめる術がありません。というか、紹興本・
いわゆる紹熙本の場合に具体的にどうなのか、マルセは知りません。
>> また、現代人のような緻密な校訂を昔のひとに期待するのは無茶でしょう。いわゆる紹煕本
(だけじゃないでょうけど)なんか、脱字して、行の始まりの字がずれてても気にしてないんですよ
(一行の字数を同じで書いてるのに)。
「紹熙本」と「紹興本」とを比べてて、そう思いました。一体何があったんでしょうね。
>> >>石田が「いわた」か「いした」かなんて、どちらか確実に判断できる
問題じゃないでしょう。
>> >>そういう場合はどちらの可能性も考えるべきです。
>> #この歌を読んだ作者ははっきりしませんが、天平八年の遣新羅使の一行として
雪連らといっしょに行動している人物(副使の大伴三中だと言われている)が、
旅の途中の現地で歌を読んでいるのは間違いないです。自分が正に今いる場所を
間違えたってことはないと思います。
>> いしだ郡内の「いはた」という地名だったという可能性もないとは言えませんけれど、
これも相当少なさそうです。
後に「いはた」が「いした」に変わった可能性が高く、
「いはた」と「いした」の共存状態とかは考えないわけですね。
いずれにせよ、「いはた」−「一大(イッダ)」と「いき」−「一支(イッキ)」
どっちもどっちなんですが。
>> >>「海」は上古音だとマ行なわけで「対海」=「つ(っ)ま」は「つしま」に近い。
そういう対応地名があっても、誤写ですか・・・。よほど運がいいんですね。
>> #運がよかったんでしょうね。
>> ただ、直前の「度一海(tu−i6i−hai)」に引かれて「對海(tu6i−hai)」
にしてしまったというのは、ありがちな誤字ですよ。
なるほど、「度一海」に引かれて「對海」としてしまったとするのですね。
私は、誤字というか文の異同にはなんらかの理由がある場合がほとんどだろう
と思っているので、そういう説明だとありがたいです。
さて、どちらのほうが可能性が高いか、ということですね。
>> 同様な誤字は倭人伝中にもあります。
紹興本に「其犯法輕者没其妻子、重者滅其門戸」とある部分を、いわゆる紹煕本は
「其犯法輕者没其妻子、重者没其門戸」と、「滅」とする部分を前の部分に引かれて
「没」と間違ってます。
ここは確実に「滅」が正しいということでしょうか。
そして、2000字中何字のミスでしょうか。
あまり多いとは思えないのですが。
このミスがたまたま「対馬」で起こってしまい、
上古音では「m」で、中古音では「h」の「海」としてしまった。
ほとんど起こり得ない偶然に思えます。
>> それより、『紹興本のもととなった魏志、それを引用したらしい太平御覧、
他の史書が悉く「對馬」としているのに、これらと別系統でこの部分が「對海」とした
魏志が宋代まで伝わっていて、たまたま、咸平本の校正者なりの目に触れられて、出版
当時その場所が「對馬」と呼ばれているのにもかかわらず、「對海」が単なる誤写じゃ
ないことが直感的にわかって、「對馬」でなく「對海」の方が正しいとして採用された』
というほうが、かなりラッキーだった、と思いませんか。
>> もっともこう解釈するなら、『「對海」とした魏志が宋代まで伝わっていて、日本
の地理なんて誰も知らなかったから、別の本ではそこが「對馬」となっているのに気が付
かずに、そっくりそのまま書き写した』と考えてみたほうがよいかも知れません。ただ、
こうゆうことがあっては、「對海」が写本の時代からの単なる誤写にじゃない根拠がなく
なっちゃいますけど。
私は以前から下の方の意見です。史書を編纂するほどの人物であれば、
引用する時には他の史書も知っていて「対海」はおかしいので「対馬」とする。
一方で、単に引き写しただけの紹熙本もあった、という考えです。
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