「こんばんわ」
露天風呂の湯気に溶けてしまいそうな柔らかな声が不意に聞こえた。社員旅行で宴会場が屍累々となっている状態を這う這うの体で抜け出した省吾はぎくりとして慌てて岩の向こうを見、恥ずかしそうに微笑む女性と視線が合った瞬間首が折れそうな勢いで顔を背けた。
混浴露天風呂があるなどとは聞いていない。男湯と女湯は時間切り替えでなく曜日切り替えであり…それが朝の掃除で切り替わるか日付で切り替わるかまでは憶えていない。もしかして自分が女湯に入り込んでしまった可能性を考えると心地良い湯の中で嫌な汗が大量に吹き出してくる。痴漢だと騒がれたら終わってしまう…何と言ってもそこそこの中小企業の社長から末端社員までで旅館の殆どを借り切っての社員旅行であり身元など簡単に発覚してしまうだろうし、女性社員間で痴漢扱いされようものなら針の筵確定である。
だが彼女の声はとても柔らかかった。まるで声優の様な母性を感じさせる様なだが清らかな柔らかさのある声が堪らなく耳に心地よい。確か庶務の新入社員だった気がするけれど名前は憶えていない。だが社内での彼女の知名度はその甘やかな声でなく、Fカップどころではない巨乳によるものだった…どちらかと言えば声フェチな省吾にとっては巨乳よりも声の方が気になるのだが、確かに巨乳も魅力的ではある。
「伊能さんが、紳士でよかった」ふんわりと柔らかな声で彼女が小さな声で言う。「皆さん、絶対に私の胸をご覧になるのが恥ずかしくて…伊能さんはご覧にならないから、嬉しいです」
どちらかと言えばもっと話して欲しい。確かに巨乳は魅力的だが眠気を呼びそうな甘い声はそれより遥かに魅力的で、毛並みの良い綺麗な血統書付きの長毛種の猫が膝の上で寛いでくれている様な、恍惚とする空気に緩く息を漏らしながら省吾は小声で「お疲れ様」と呟く。枯れている訳ではない三十代。そう広くもない露天風呂で女性が、しかも十分に美しい巨乳新人社員が全裸で入浴しているとなれば股間のモノはいきり勃ってしまっているが、それより1/fの揺らぎを感じさせる声をもっと聞きたい願望の方が大きい。
「天音さんの声、綺麗だよね」
「……、ありがとうございます」
ぽつりと呟いた言葉に、とても恥ずかし気に彼女が応える。
「警戒心が薄い。――誰かに襲われたらどうするの」
ふわりと、彼女が首を傾げている気配がした。そんな気がするだけ。だが彼女はそんなおっとりとした仕草がとてもよく似合う…チラ見した事のあるタイピング速度は鬼だけれど。
「襲うんですか?」
天使の様な無防備な声で彼女が質問してくる。余りにも無防備すぎて少し悪戯をしたくなるけれど、だが場所は選びたい、つまり自分は彼女にそういう興味はあるらしい。この声で間近で喘がれたらそれだけで射精しそうになるだろう、いや、どんな声で鳴くのだろうか、ちょっと聞いてみたい。
「襲わない。和姦主義だから」
「付き合っている方、いらっしゃるんですか?」
「フリー。探すの面倒」
「もったいない」
軽い会話で挨拶みたいなものだけれど、彼女が自分の言葉に返事をするのがとても心地良い。はーっと深く息を吐き出しながら空を見上げると学生時代に憶えた星の並びが見えた。
「……。春の大曲線って知ってる?」
「え?何でしょうか?」
「空、見上げて。北斗七星は知ってる?」
「一応……」
浪漫よりも理系馬鹿の非モテだなと自覚しながら省吾は星座案内をゆっくりと始める。当然ギリシャ神話など殆ど知らない。一応野郎ばかりで見に行ったプラネタリウムの解説レベルでは話せるもののどこぞの王族の話や嫉妬深い女神の呪いだのと言った面倒臭い話よりは絶対等級や何光年かの話の方が熱く語れる…がそこは一応必死に噛み砕いて、ぽつりぽつりと思い出しながら星空を案内する拙いガイドにいちいち喜ぶ彼女の声が愛らしい。
「――で、正義の女神だか地母神の娘だかはっきりしないのが、乙女座」
身も蓋もない解説にくすくすと小さく笑う彼女の声に、省吾は岩に凭れながらゆっくりと首を回す。思ったよりも話が続く。
「神様ってかなり…その…本能任せなんですね」
「神様だからなのかも。人より純粋なんだろうかね、そう言う衝動やら欲望に正直なのは、らしいと言えばらしい」
露天風呂で顔見知りの男女が話す内容としては無難だったかと安心していると、ふと会話が途切れた。
「……。本当は社員旅行、来たくなかったんです…。でも伊能さんと話せて、いい思い出も出来ました。ありがとうございます」
「嫌な思い出は、やっぱり…セクハラ?」
「……」
彼女の沈黙が肯定している気がして、冗談めかして省吾は口を開く。
「防波堤いる?嘘彼氏でもいれば変なおっさんも手を出しにくいでしょ」
冗談百%の軽口だったがそれは受け取り様によっては酷いセクハラに外ならなく、言った瞬間に後悔した省吾はそれまでの会話の様子からそこそこ上手に切り抜けてくれる筈の子からの返事が随分と遅いのに引っかかる。怒りのあまりに帰ってしまったにしては水音もなかったし、そこから立ち去った気配もない。そっと首を巡らせて横目で視界の隅に巨乳美人を収めると、真っ赤になって俯いている。
「天音さ……」
「お願いして、いいですか?」
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94『温泉に入ったら・増補分』
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