『姫。――貴女が欲しいと、伝える事を許して下さい』
守護騎士の言葉が頭に届いた瞬間、ルーナは膝の震えすら忘れて固まってしまった。
自分が守護騎士へ思いを寄せていてもまさか相手が自分を望むとは考えてなかったのである。姫巫女と守護騎士。常に近くにいる存在であっても守護騎士にとっては姫巫女は守る対象であってそれは使命であり…つまりは自ら望んでの事ではない、それは思いに気付いてからずっとルーナの胸を痛めていた。王宮の塔か神殿で大半を過ごすルーナではあるが守護騎士の任務が…特に自分の守護騎士の任務が一般の騎士と全く異なっている事は知っていた。自由時間があまりにも少ない。常に傍に、目に見える場所に控えてくれている時間も多いが見えない場所で控える時間も多い。侍女には一月に何度か休日があるが彼には一切それがなかった。夜風にのって微かに聞こえる楽し気な城仕えの者達の宴会の歓声を羨ましく聞いている時ですら、彼は傍にいた。人生の全てを奪っている気がしていた。それなのに、思いは募っていく。それは罪悪感と同時だった。
その人が、自分を欲しいと言う。
じきに姫巫女としての神力の全てを失うであろう自分に。
それにその言葉は酷い。欲しいと望みながら、伝えるだけで彼はもう満足なのだ。
当然かもしれない。自分の神力が失われるのは恋慕の為だが、もしも、もしも合意の上であろうが無理矢理であろうが巫女姫が男に身を許せば穢れた時に神力が失われる。まだほんの僅かに残されている神力も根こそぎ消える。故に彼は自分を欲したとしても手に入れる事は叶わないのである。まだ僅かに残る神力を奪わない為に。
ルーナの神力が失われるのはルーナ自身の罪であるが、それが他の者の所業であった場合はどの様な罪に問われるか。ルーナの神力は取り戻しようがなく、そして最強の守護騎士を斬首すれば何の利もないと冷静に考えれば判る筈だがその可能性は否めなかった。
「……」
微かな風が木立を揺らし、守護騎士の灰色の髪をかるくそよがせる。今までこうして向き合えた時間がどれだけあっただろうか。漸く、初めて、思いを秘めずに恋しい男性を見つめる事が出来る幸福に涙を頬に伝わせながらルーナは微笑んだ。ありがとうとも嬉しいとも言えず、そして彼の身を案じればただ見つめる事すら本来してはならない事なのだろう。一度失い始めた神力は消える間際の蝋燭に近くいつ何がそれを絶えてしまうか判らない…王城近くの森に魔獣が出没した事がそもそもおかしいのであり、失墜した巫女姫であっても最後まで祈りは捧げ続けなければならない…民よりも恋を望んだ愚かな姫と皆が失望するだろうが……。
「――貴女は、いつまで犠牲にならないといけないのですか」
穏やかな口調でありながらそれには炎の様な激しい憤りが籠もっていた。
恭しく手を取られたままのルーナの身体がびくりと揺れる。聖白銀の守護騎士の闘いぶりは幾度も目にしている。魔物の軍勢に攻め入れられた時にはルーナも討伐に赴き加護と浄化の祈りを捧げる必要があった…聖白銀の鎧の全身に返り血を浴びて戦う守護騎士は狂戦士と味方に恐れ慄かせる程鬼気迫っており、確かにその姿は幼いルーナから見ても恐ろしくはあったが、それ以上に…美しかったのだ。純粋な武の力は害を為す魔物の命を奪うものであるにも関わらず、本陣近くの森を焼く燃え盛る炎を背にした血塗られた長身の守護騎士はまるで軍神の様に圧倒的に美しかった。無表情な常とは異なるあの時に見た爛々とした目と喜悦に歪む口元を何故か思いだし、恋を知り無力化しつつある姫巫女の身体にぶるっと震えがはしる。
「貴女以上に犠牲になっている者はいない。この国は辺境であっても飢える民もいない恵まれた国です…天候不順の凶作も他国の侵略も最小限に押さえられ正しい政で統治されている。だが貴女は何だ?幼い頃から国の為民の為の祈りを捧げる事しか許されない。まるで鳥籠の中で囀る為だけに生かされている鳥の様だ」
守護騎士の言葉にルーナの身体が揺れる。自分を不幸だと思った事はない…皇族として贅沢に暮らせているのは判っており、それは巫女姫として生きる少女にとっては当然の日常でありそれ以外の生活は知らないのだから…そう考えかけ、塔から眺めていた眼下の賑やかな灯りを思い出す。守護騎士から自分が奪っていると思っていたあの灯りは自分も手を伸ばす事の適うものだったのだろうか。
「貴女が咎められるのも好奇の目に晒されるのも私には許しがたい」
そう言い、守護騎士は不意に表情を曇らせた。
口づけた後も取り続けていた手をそっと見下ろし、騎士が自分の手の上にあるルーナの手の小ささを実感している様にかすかな吐息を漏らす。何の苦労も知らない生白い細い手を支える守護騎士の手は容易くそれを握り潰せてしまうのではないかと思える程に大きく硬く傷だらけの大人の男のものだった。
「私は貴女を守る者。――貴女を守る為ならば何でもしてしまう…そう、何でも」
言葉少ない人が今日はとても多く話してくれる…だがルーナの返答は少ない。自分の神力が失われる事を告げねばならないと考えてはいたが、彼がただの女になってしまう自分に失望しない場合を考えていなかったのである。この無意味な神域を出てしまえばもう二度と会えなくなるかもしれない。彼の腕があれば将軍職も夢ではないどころか筆頭騎士としてありとあらゆる富と名声を手に入れられるであろう、そう判っているから言葉が出ない。
手に伝わる温もりを惜しみながらそっと離し、ルーナは長身の騎士に背を向け歩き出す…歩くと言ってもその足取りはまるで死刑台へと向かう罪人の様に重く、そして頼りない。二人のいる畔の反対側にある魔獣の死骸へと歩を進め、手前で立ち止まった姫巫女は胸の前で指を組み、瞳を閉じる。
浄化。
いつもは祈った瞬間に全身に満ちる眩しい光の熱量が今は指先位の灯火にしか感じられず、それが胸の奥で今にも消えそうな程か細く揺れていた。両手で包まないといけないと感じる光の弱さに自分でも驚き、喪失感に震えだしそうになる。目に見える範囲全てを満たし瞬時に魔物を消し去る神力がここまで頼りないものになってしまう事が信じ難かった…物心がついた時には当然の様にあった能力である、失われる事など想像もしていなかった。
どれだけ祈り続けただろうか。暫しの間の後瞳を開いたルーナの目の前に、まだ消え切っていない魔獣の死骸が映る。
「……」
大小の光の玉がじわりじわりと侵食している魔獣は元は全長三メートル程だったが、暫し祈っていた筈であってもその半分程が消えかけているだけだった。恐らくこのまま放っておいても死骸は徐々に消えはするだろう、だが、これまでの浄化と比べて余りにも遅く弱い。城の大神官や大魔導士ならばこの程度の魔獣は瞬時に消せるであろう。今の自分には神殿の見習い神官と同等の神力しかないと再認識させられ、少女は項垂れる。
「ご覧になりましたか…? 私は…もう無価値なのです…。貴方に守っていただく価値は、ないのです……」
この魔獣が神域に侵入してきたのに気付けなかった事実に驚き凍り付いてしまった時に殺されていればよかったのだろうか。いやその場合は姫巫女を守り切れなかった守護騎士が咎められてしまうだろう。自分の惨めな姿を一番見せたくない相手に晒してしまった絶望感に全身の血の気が引いていく。もう何の取柄もない、逆に神力を失った娘など物笑いの種でしかないだろう。
「判っていた!」憤りをぶつける様な強い声音と同時にルーナの身体は背後から抱き締められていた。「貴女の神力が失われていっているのは既に判っていた。ずっと貴女に仕えているのだ気付かずにいるなどと考えないで欲しい」
何故この人はこうも怒るのだろう。深夜の塔のテラスでのお茶会では二、三言話してくれただけだったのに、と守護騎士の腕の中でルーナは更に泣きそうになる。互いに何か特別な事や話をするでもなく緩やかな夜風を感じながら星明かりの下ただ心地良く穏やかに…僅かな胸の高鳴りを秘めながら過ごせたあの時間に戻りたい。――あの頃既に恋をしていたのかもしれない。手で汲んだ水の様に時間は、大切なものは零れ落ちていく。
「貴女は十分に役割を果たしました。これ以上搾取したいのならばそう思う者が代われるものなら代わればいい。国の守りを十七歳の乙女に背負わせる方がおかしい」
ふわりと、ほんの僅かに騎士の身体が前屈みになった気がした。まるで大切なものを全身で包み込み暖める様な微妙な動きに、ルーナの瞳から涙が零れる。
「私は…許されるのでしょうか……」
「――誰に認められればいいのですか?」
不意に背後から抱き締めている腕がするりと動き、ルーナの身体は騎士の腕に抱き上げられていた。片腕で軽々と支える腕の逞しさに驚き、そして全裸の身体が騎士の目の近くに晒されている事に気付き少女の頬が熱くなり堪えきれず顔を逸らそうとする頬に手が添えられた。
「……」
「ご無礼を、許していただけますか?」
「……。だめ……」
そっと促され口付けを交わそうとする騎士の仕草にルーナはびくっと身を震わせ身体を強張らせてしまう。先刻一方的に唇を重ねた時には奮えた勇気が一欠片も出せず、逆に異性を強く感じる状況に巫女姫であった乙女は怯え男の腕の中で微かに逃げ腰になる。神に捧げられている様に育った年月は異性との肉の交わりに本能的な禁忌を植え付けているのかもしれない…恋い焦がれる騎士をまるで肉食獣か何かの凶暴な存在みたいに感じ、白い身体の中がどくどくと鼓動が速まり、優しく説き伏せる様に頬を撫でる指に、少女は怯えながら男へと視線を向ける。荒削りに見えるが整った顔立ちをしている守護騎士が常の無表情でなく困った様な微かな笑みを浮かべているのを見た瞬間、ルーナは自分の顔が耳まで真っ赤に染まり熱く火照るのを感じた。
一方的とは言え口付けをしたのは自分が先であるにも関わらずルーナはそれの予感に少し顔を逸らしてしまう、が、大きく硬い手でそっと優しく柔らかに頬を撫でられぞくぞくぞくっと甘く切ない感覚が全身に巡り、男の腕の中で微かに身を捩る。あの聖白銀の鎧を身に纏った上でルーナの背程もある長剣を軽々と振るう最強の腕に、指に、小動物を壊さぬ様に触れるか触れないか判らない程の優しい指遣いで何度も頬を、顎を、額を撫でられていくうちに、怯えた迷子の子猫や小鳥が大人しくなる様に少女の身体の強張りがじわりじわりと解れていくのを、騎士が物静かな穏やかな表情で見守っているが、その瞳の底は労りと抑えがたい狂おしい熱の様なものを潜ませていた。男の腕に抱え上げられている白い裸身がほんのりと上気し禊で清めた後だと言うのに花や蜜に似た甘い匂いを漂わせ、不慣れな刺激にうっとりと濡れた瞳をして無防備な吐息を零す少女に、男の口から抑えに抑えた呼吸が漏れる。
「――姫。貴女が欲しい」
びくっとはっきり身体が震え、ルーナは覚えのない熱く切ない感覚への不安と、甘くぼんやりとしてしまう思考のどこかでもしもこのまま身を委ねてしまえば自分の罪をこの騎士が一身に受けてしまうであろうと判っている理性の悲鳴に首を弱く振った。恋しい人に抱かれる事に憧れていても立場と怯えが先に立ち…いや本能的な処女の怯えが少女を突き動かし、男の腕の中でルーナは身を捩る。長身の守護騎士の腕の中で華奢な巫女姫がくったりとしかけている身を捩ろうがそれは細やかな抵抗にすらならず、男の腕の力を込めさせるだけでしかなく、腕に抱え上げられていた白い裸身は男の懐深くへと引き寄せられゆったりとした巫女の装束でも隠しきれない豊かな乳房が男の鎖骨の辺りに押し付けられむにゅりと淫らに歪む。乳房の先端の過敏な場所が守護騎士の逞しい胸板との間に挟まれ擦れた瞬間、声にならない詰まった甘い吐息が姫巫女の唇から零れ、結い上げている髪が跳ね上がる。恋しい人に応じようとする身体は昂ぶりきりあらゆる刺激に反応してしまっていたが不慣れな少女は戸惑い再び首を振り、そして恥ずかしい感覚が性的なものだと薄々感じながら長年自分を救い続けてきた頼れる守護騎士に問いかける視線を、たった一瞬だけ向けてしまう。
「御免」
濡れた視線を向けられ息を詰まらせた騎士が、暫し苦しげに何かを堪える表情を浮かべた後、少女を深く抱き寄せ唇を重ねた。
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92『失楽園・後編』
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