2021余所自作90『失楽園・前編』

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 目の前でびくびくと痙攣している魔獣に、腰が抜けて清めの滝の浅い滝壺に座り込んでしまっていたルーナは大きな瞳を見開いたまま凍り付いていた。
 城の裏の森の奥、神域と呼ばれている場所は崖に囲まれた空間であり神力によって魔物ですらない獣等の侵入もない筈の場所であり、巫女姫として物心がついてから毎日の祈りを捧げているルーナはこの場所で鳥や獣を…ましてや魔獣など見た事がなかった。
「――姫、ご無事で…?」
 自分が無事である事など判っているであろう。二十メートル以上はある崖の上から木々と壁面を幾つか蹴って衝撃を吸収しつつ飛び降りて交差した瞬間に魔物の首を一刀両断した聖白銀の守護騎士の短い問いに頷こうとしたルーナは、その鎧の腹部から溢れている血に気付き悲鳴をあげる。
「ぬ、脱いでください!毒…毒が……!」
 血生臭い話とは無縁であっても魔物の討伐等でそれなりに知識を得ているルーナは自分を襲おうとしていた魔獣が毒の爪を持っている事を知っていた。運悪くか脇腹の鎧の継ぎ目辺りに爪が刺さったのか、聖白銀の鎧が魔獣の爪の形に歪み裂けているのが判り、魔獣の強さに背筋が寒くなるよりも目の前の騎士が血を流している現実に気が遠くなる。自分より十五は年上の騎士が負ける姿を見た事がない…最強と名高い老将軍よりも実は強い守護騎士は自分の幼少の頃からの絶対的な存在だった。
「何故…何故貴方が…!? 怪我など、何故……!」
 そうは言っても傷を負った事が皆無ではない筈である、が、弛まない鍛錬で一対一で彼に手傷を負わせる存在は存在しないだろう、そう考えていた。
「姫、ご無礼を」
 僅かに顔を顰め自分に背を向け見えない場所へと歩く騎士の顔色が悪く、そして脇腹を抑える手の間から血が溢れているのを見、ルーナは慌ててその後を追い腕を引く。
「何を言っているのです!すぐに鎧を脱いで!すぐに止血…いえ毒を抜いて下さい!私の…私がいるから何だと言うのですか!」
 そう叫び、ルーナは騎士の鎧の留め具を慌てて探す。確か何処かに装着する為の留め具があった筈だと思い焦る少女は自分が清めの為の全裸である事を忘れていた。ただ目の前の騎士が毒に斃れるのではないかとそれだけが身体を突き動かしていた。
「……。失礼します」
 そう言い騎士が鎧を外していく。金属鎧の下の暑苦しそうな綿入り亜麻布の服の脇腹が裂け周囲がべっとりと血で汚れているのに気付き、だが騎士が手早く脱いでいく作業の邪魔はしまいと泉に下ろされた白銀の鎧をせめて畔へと移動させようとしたルーナはその重みに驚く。聖白銀は鉄よりも軽いが頑丈な希少な金属である筈だがそれでも鍛えていない姫では軽々と持ち歩けない程に重い。その上鎧の下は綿入り亜麻布の厚い服を着ているのだから動き難いであろうに、何故軽々と動けるのか…そう思いながら何とか泉の畔に鎧の胸部を運んだルーナは、振り向いた瞬間、動けなくなる。
 朝日で煌めく滝を背にしている騎士は上半身裸になっていた…いや上半身と同じ綿入り亜麻布の洋袴を少し下ろし腰履きにしている状態は、引き締まった体躯の胴の殆どをはっきりと巫女姫の瞳に映していた。守護騎士の身体は思った以上に傷が多く…そして致命傷と思える程の大きな傷が幾つもついていると気付かされる、それなのに、ルーナの瞳には幼い頃から見つめ続けていたその身体が逞し過ぎず、怯えずにいられる限界のしなやかな引き締まったものである事に安堵する。塔の部屋から見下ろせる鍛練場の熊の様な男達の様でなくてよかった、と一瞬考えてしまったその瞳に、脇腹の怪我が映る。傷は思ったよりも大きくはないのか、引き裂いた様な長いものではない様だが、だが騎士の手が搾ろうとしている箇所の出血は少なくはなく、腰履きの亜麻布の洋袴が血に染まっていく。
「何を…しているのですか!?」
「毒を……」
「手を放して!」
 清らかな水を蹴って騎士へと駆け寄ったルーナは血に塗れた逞しい手を姫にあるまじき乱暴な動きで払いのけ、そして瞳に映ったその傷に息を?む。人の親指の爪より大きな穴が穿たれている脇腹の傷は出来て間もないのに既に青紫色に染まっている気がする…何より引き締まった腹部の穴が意識を遠退かせようとするのを振り払い、少女は騎士の腹部に吸いついた。毒は早く吸い出した方がいいと何処かで聞いている。ただその毒で自分が斃れない為にはすぐに吹き出さないといけない。傷口から溢れる血を急いで吸い出しては吐き、そしてまた血を吸っては吐く。衛生兵の知識があればもっと冷静に何か出来るものを、そう思い只管繰り返す。ただ、ただ、この騎士を失いたくなかった。

「無茶をなさいますな」
 常よりやや顔色の悪い騎士が畔の草の上で呟くのを聞き、ルーナは顔をあげた。
 毒の為か冷えていて若干朦朧としている様子の騎士を無理やり横たわらせ、身体を温める為に重ねていたルーナはまんじりとも出来ずにどれだけ時間が経ったのか…朝の禊と祈りの筈が既に太陽は天高く昇っている。城の者が心配しているかもしれないが神域はルーナ以外の出入りが基本的に禁じられているし、祈りが夕刻まで続く場合もあるから使いが訪れる事もないだろう。
「無茶は貴方の方です。私の目が何だと言うのです、毒はすぐに抜かねばなりません」
 神域には誰も近づけない。遠くの鳥の囀りと緩い風が葉を揺らす音と、滝の音だけの世界の中、肌を重ねている騎士の厚い胸板の鼓動をずっと聞いていたルーナは頬の熱さを誤魔化す様に咎める声をあげてしまう。毒の為か逆らいもせずに静かに横になってくれていた騎士の温もりが戻っているのは有難い…少し眠ってくれたのも嬉しかった。幼い頃は判らないがこの騎士は自分の起床から就寝まで一切休まない事を知っている。寝付けずに深夜のテラスで一人密かにお茶を飲んでいた時、傍にいると判り呼び出しぎこちない深夜の二人だけのお茶会をさせた事もある。守護騎士であっても寝室が皇族の隣である筈もなく、皇帝も皇太子も皇后も当然の様に各々の騎士を扱うが、ルーナは時折それに躊躇いを覚え、そしてその違和感は日増しに深まっていた。
「それにしても何故神域に」
 守護騎士がぽつりと呟いたのはまだ意識がはっきりとしていない為かもしれない。
 城の周囲に魔物が出没するのは騎士団の警備の問題であるが、神域への侵入への疑問は神への疑問に等しい。聖白銀の鎧の騎士は侵入出来ても魔物は弾かれる以前に認識すら出来ない筈だった。侵入を許される唯一の騎士が崖の上から飛び降りてきたのは、ただ単に巫女姫の裸身を目にする無礼を避ける為である。
「……」
 騎士の呟きに、ルーナはゆっくりと身を起こす。いつまで彼は自分の傍にいてくれるだろうか…巫女姫が巫女姫としての能力を失っていると判ったら殆ど無表情のその目はもう自分に向けられないかもしれない。国最強の騎士を配属させるべき部署は多い。無意味な姫につける存在ではない。神力のない姫は隣国などとの政略結婚の大切な道具として扱われる。ルーナの姉も妹も既に嫁いでいる。ルーナは十七歳、既に王族としては嫁き遅れとして見られてもおかしくない年頃だった。今日の魔獣の侵入が他に知られればもうこの騎士には会えないかもしれない。
「――姫?」
 怪訝そうに自分を見上げた騎士に、ルーナはそっと顔を動かし、その唇に唇を重ねた。
 接吻とはどの様なものだろう。ずっと…恋をしてからずっとそう考えていた。大神官の前で永遠の愛を誓う式の最後に唇を重ねるそれは数回だけ見ているが、神に祈りを捧げる自分には訪れる筈もない愛の儀式だった。それを無意味に…弱過ぎて無意味になってしまった神域の泉の畔で乙女は相手の了承も得ずに身勝手に、涙を浮かべながら行っていた。
「……」
「貴方が好きなのです…ですから……ですから私はもう巫女姫ではありません」
 その言葉は別れのものだと認識しているが、この騎士を解き放つ言葉は自ら告げなければいけないとルーナは認識していた。今までどれだけ守護騎士の時間を奪ってきただろう、どれだけ人を魔物を殺めさせてきただろう、言葉少ない人の信頼を裏切ったのは自分だった。神に祈りを捧げる巫女姫だからこその多くの優遇を…この聖騎士の守るべき存在を損ねさせたのは自分自身でありそれはどれだけ彼の誇りをこれまでの人生を損なわせるのか、憎まれてもおかしくない、疎まれて当たり前、だがこれから政治の道具として…嫁き遅れのただの姫として有利な条件でない愛おしくもない男の元へ嫁がされる前に、一度だけ密かな思慕を伝えておきたかった。神は意地が悪い。何故胸の内で密かに人に恋をする事すら許さないのだろうか。
 涙を零しながら逃げる様に身を放すルーナの手首を大きな手が力強く握り、その動きを止めさせた。
「……。もう、神力が……?」
「ええそうです。全て私の愚かさがいけないのです」
 まだこの騎士を独占出来る、あと少し、もう少し、今日だけでも、そう願い続けていた思いつめていた日々を先刻の毒と共に吐き出す様に吐露するルーナの身体がぐいと引き寄せられ、気付けば逞しい胸に顔を埋める体勢になっていたルーナの白い裸身を守護騎士の腕が抱き締めていた。
「姫は悪くはないのです。人が人を愛しておかしい筈がない。それは愚かでも何でもない」
 はっきりとした騎士の声に、その胸板に顔を埋めているルーナの瞳から更に涙が溢れる。言葉少なく何に喜ぶかも判らない守護騎士の剣技にそれは似ていた。一切の迷いのない美しいとすら思える圧倒的な斬撃…それは敵であればどれ程恐ろしいか、だが自分だけの騎士としてはどれだけ頼もしいか。皆が神に祈りを捧げる巫女姫としての自覚を神力を自分に求めて何の疑問も抱きはしなかった、それを望んでではなくとも放棄してしまった自分を悪くないとこの騎士は断言してくれる。
「責めないでいてくださるのですか……?」
「……」
 もう責められないと判っていても再確認してしまうルーナを抱き締めてくれている守護騎士の腕の力が僅かに強まり、息苦しい程のその腕の中で不意に自分が恋しい男性の腕の中で全裸であるのを強く感じ羞恥に頬を染めた。巫女装束は鎧を置いた場所近くに畳んでおいたが、いつ身に纏えばよかっただろうか?彼を温める時には邪魔になったがはしたないと思われてはいまいか、髪を結いあげているリボン以外は何も身に着けていない気恥ずかしさと着飾れていない残念さにもうどうすればいいのか判らない。
「――私は十六も年上のつまらない男です」
「は……?」
 国の最強の守護騎士のどこがつまらない存在なのか謙遜にも程がある評価に思わず間の抜けた声を上げてしまうルーナの顔をそっとあげさせ、男が静かに神力を失いつつある女を見下ろしてくる。
「姫が巫女姫である限りはその御傍に、姫が何処かに嫁ぐのならば私を騎士として供をさせて欲しい…そう考えてましたが、身の程知らずな欲が、芽生えました」
 全裸のルーナをそっと解き放ち、男は常の様に片膝をつく事もせず少女の手を取り口づける。
 誰も訪れる事のない…既にほぼ意味のなくなってしまった神域の緑豊かな泉の畔で全裸の十七歳の乙女に止血に布を巻かれている腹部より上は傷だらけの鋼の肉体を晒している男が向き合っていた。清めの滝の水音と遠くの鳥の囀りと風が葉を揺らす微かな音しかない世界に柔らかな日差しが降り注ぐ。何も身に纏っていない姿を男の目に晒してしまっている羞恥に頬を染めほんの少しだけ後退りそうになるルーナは、自分の膝が微かに震えている事に気付く。
「姫。――貴女が欲しいと、伝える事を許して下さい」

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