「冷えるな」
「そだね」
月明かりが窓から差し込む体育倉庫で春奈は背中に当たっている男子の体温を感じて頬の熱さを逃がす様に僅かに首を傾ける。背中と背中を合わせている体勢は、まるで自分と彼の関係の様だった。まだ十月に入っていない夜更けはとても寒く、コンクリート打ちっぱなしの体育倉庫は底冷えする為折ったマットを敷いた上でも温かさは感じられない…背中の主以外には。
「シャンプー」
「?」
「シャンプー、いい匂いだな」
「そ、そう?ありがとう」
「家族で皆同じの使ってるのか?その、夏み…妹も」
その言葉に含まれている僅かなニュアンスに春奈は凍り付く。素っ気ない同級生の言いかけた名前、妹の名前に含まれた甘酸っぱい響きに。どくんどくんとこめかみで脈が鳴り全身の血の気が引いていく気がした。妹の夏海は背中の主の所属している陸上部のマネージャーをしている一年生で、入部してから半年と経っていない…自分は一年半近くずっと彼を見ているのに。いやそもそも無邪気で明るい妹は恋人が出来たならば朝夕構わず惚気話をするだろう、だから、きっと彼と妹はつきあってはいない。つきあってはいないけれど、自分と話す時にはない僅かな響きが妹と話す時には篭もるのだろう。
「――夏海の事、好きなんですかー?」
「え!?何…何言ってるんだよ!」
「姉が言うのも何ですが夏海はいい子だけど鈍いですよぉー?」
「……。それは判ってる」
聞きたくないと思っているのに春奈の唇からは少しふざけた意地悪な声音が零れる。背中合わせの温もりを意識して仕方なくてでもぴったりと貼り付けるには気恥ずかしかったそこに、ゆらゆらとシーソーを漕ぐかの様に力を込めて押しつける。まるで茶化す様に。そんな少女の背中を受け止める同級生の汗の臭いが鼻を擽った。直前まではどきどきして嗅いでいたそれが妙に切なくて涙が出そうになるのを堪えて春奈は鉄格子の填まっている窓の外を見上げる。月明かりが明るいなと思っていたらいつの間にか満月が見えていた。
「いきなりごつごつぶつかるな」
「いいじゃないですかー。私にサービスしておくとお得ですよー?将を射んとする者はまず馬を射よって言うし」
「……。なるほど」
「じゃあ将来の下僕君として、まず温かい何かください」
「何かいきなりぶっちゃけてるぞお前。そういう奴だったのか?」
「赤の他人と家族だと誰でも違う顔ってものがあるんです。さぁさぁ」
冗談めかして誤魔化す春奈の背中でごそごそと同級生の身体が動き、そして不意に何かが頭の上に乗った。タオルなど首にかけてはいなったなと思いながら受け取って広げた少女はそれが同級生の体操着の上着だと気付く。
「汗臭い」
「なら返せ」
「ないよりマシですかね」
上着を抱き締めそうになる春奈はそれを体育座りの膝の上にかけ、俯く。
「夏海の、どこが気に入りました?」
「糸の切れた凧みたいに危なっかしい所かな。お前と正反対。胸は小さいし笑い声大きいし赤点とってもケロッとしてるしいつも独楽鼠みたいに走り回ってる」
「こらこら褒めてやってください」
「褒めてる。――お前は姉なんだから判ってるだろ?」
「まぁ、ね」
「お前もこれが地ならもっと素直にやった方がいいぞ?」
「何が」
背中の温もりが名残惜しいと思いながら春奈は膝の上の体操着に顔を埋める。汗臭い。男子の汗の臭いは塩っぽくてそして少し制汗スプレーのミントのにおいがする。胸がぎゅっと締め付けられる…妹はいつかこの匂いに包まれるのだろうか、と思うと胸が痛くなる。
「お前いつも何か我慢してる長女!って感じで苦しそうだったから、今みたいにぶっちゃけた方がいいぞ。我儘言われる方が男は嬉しい。優等生顔だと何考えてるか判らないからな」
「……。じゃあ、今何が欲しいか判りますかぁ?」
「……。もうやれないぞ。後は短パンとパンツしかねえ」
「もしもーし、痴女扱いしないでくださーい」
「靴下とか言い出したら痴女じゃなくて変態だからな」
「靴下ねだる位なら扉か壁を砕いてみせろって言いますよ」
「俺は短距離専門だ」
「知ってます」
ふざけ過ぎたのかふうっと同級生が息をついたのを聞いて、春奈は月を見る。
「見てみて、月が綺麗ですよ。こんなに晴れてると寒いワケですねー」
「お前妹と同じレベルで暢気だな」
「冗談。私はしっかり者のお姉ちゃんですよー。頑張ってサービスしてください、下僕様」
そう言い、春奈はそっと体操着に唇を当てた。
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66『傷心旅行』
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