『やあ、ガーネット』
ベッドに横たわっている青年が私を見る。痩せこけた頬は更に肉付きが薄くなった気がする。綺麗な若草色の瞳だけが美しい色合いで後は全てくすんで見える…彼の身体も病室も。
「うん。来た」
ずっと探し続けていた私を見つけてくれる人が彼だった。私が人になるには純潔を捧げなければいけないのだけれど、恐らく彼はたった一度の交わりでも命尽きてしまうだろう。静かな、静かな病室。窓の外の五月の新緑は美しくきらめいているのに、白いベッドの上の彼には緩やかな死のにおいが漂っている。言葉ももう話せない。私が聞こえているのは心の声。天使と言うよりまるで死神の様に、毎日私はこの病室に舞い降りる。
『外は、まだ寒くない？』
「平気。鳥達と一緒に梢で寝てる」
あまり話すのに慣れていない私の言葉に、彼が薄く笑う。笑ってくれる。教会に降りても眩暈がしそうな駅の人混みに漂っても誰も私に気付いてはくれなかった…そんな私を彼が見つけてくれた。人の声は何でこんなに優しいのだろう。心の声だからだろうか。まるで小鳥を温める親鳥の様に私を労わってくれる。ずっとずっと生きているのに。すぐに死んでしまう人間よりも長く生きているのに。
ガーネット。彼がつけてくれた名前。私の瞳と髪の色の名前。名前のない私をとても優しく呼んでくれる。名前。知らなかった。名前を呼ばれるのがこんなに温かいなんて。
まるで地面に落ちて怪我をした無力な小鳥の様な彼へ指を伸ばして、そっと髪を撫でる。世話をされて綺麗だけれどぱさぱさに乾いた髪は、潤いがない。でも実際に触れてはいない。そう感じるだけ。
『鳥達は、優しい？』
「うん」
万物の生き物は基本的に私達に優しい。でもそれは同等の存在ではないから。まるで大樹に留まる様に、温かな日差しに喜ぶ様に彼等は寄り添い、戯れる。私を残して。――彼はあと何日生きていられるだろう。見ようとすれば命の灯が尽きる凡その目星はつくけれど、見たくない。
『ごめんね。ガーネット。また見せて貰えるかな、君の見てきた空を』
「うん」
ふわりと浮かび、私は彼の額に額を当てる。私達は生まれてから今までの全てを記憶している。寒い空も、熱風で炙られる空も、火薬と大量の死体の焼ける匂いの空も、凍てつく空も。彼には出来るだけ綺麗な空を見せてあげたくて、記憶の扉を開く。吸い込まれそうな蒼天や、名も知らない花弁が舞う空、降る様な星空、たなびくオーロラ…とてもとても綺麗な空。病室の窓から緩やかな風が流れ込み、カーテンを揺らす。記憶の空の中で、私は彼と空を飛ぶ。まるで絵本のピーターパンとウエンディの様に。手を繋ぐ。細くて今にも砕けてしまいそうな、骨と皮ばかりの手。でも温かい。記憶の中で、彼が微笑む。ありがとうと言ってくれる。もう一歩も歩けない人と、私は記憶の空を飛ぶ。話しかけて貰えるのは、何て幸せなのだろう。
毎日、私は彼と一緒に空を飛ぶ。少しずつ伝わる。彼の存在が希薄になっていく気配。朝が怖い。鳥達と一緒に眠りながら、次の朝には彼に会えなくなる恐怖を、少しずつ私は憶えていく。人になりたい。人になれば彼の手を本当に抱きしめられるだろう。人は残酷で、人は優しくて、人はとても儚い。何万何億の人達を空から眺めてきた。でも誰も私に気付いてくれない。
彼がいなくなれば、また私は孤独になる。その前に人になりたい。いや、彼と一緒に見たい。記憶でない空を一緒に見上げて。病室の窓からでもいい。同じ人間の瞳で、同じ時間で、手を繋いで。――でも、彼は私を堕天させるだけの力はもうない。
「ガーネット。綺麗だね」
「うん。空はとても綺麗」
記憶の中の永遠の続く様な白夜の空を飛ぶ私に、彼が微笑んだ。
「綺麗なのは、ガーネットだよ。君はとても綺麗だ」
何を言われているのかが判らなくて首を傾げる私の手を、彼の手が強く握る。
「ありがとう。ガーネット」
不意に、彼の髪が砕けた。私の記憶の中の空で、低くしか昇らない太陽の光を受けて彼の身体が光の欠片になって砕けて風に乗る。穏やかな優しい光の灯る若草色の瞳と、私に向けられた大切な笑み。待って。私に風を操る能力はない。私は風に乗るだけ、風の中を泳ぐだけ。きらきらと砕けていく彼に手を伸ばして、首に縋りつく。記憶の中では触れられる。終わらない夜、明けない朝の中、彼の身体は温かで、私の頭をそっと撫でてくれる指が、光の中で砕けていく。
「君が好きだよ」
見上げた次の瞬間、彼の最後の欠片が砕けた。
小鳥の微かな囀りの中、私は目を開く。もう夜明け。
少し飛べば、彼の病室に行ける。
人は狡い。
私の記憶の空の中にまで滑り降りてきてくれるなんて、知らなかった。
人も奇跡を起こせるなんて、私は知らなかった。
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