2022余所自作115『密かに想いを』

表TOP 裏TOP 裏NOV 114<115>116

 夜明け、らしい。
 穏やかな波音に目を開いた省吾は見慣れない矢鱈と広い寝室に暫くぼんやりとする。身体を絶妙に沈み込ませるベッドの心地良さと漂う甘い匂いのせいか完全に熟睡していたらしい。最近は仕事に追われ気を失う様な睡眠ばかりで共に熟睡には変わらない筈だが高級品のキングサイズのベッドと自宅の椅子の上との違いのせいか、とても身体が楽である。
 音が、緩やかに波打っている。
 まだ夜明けには若干早い薄明の時間で、締め忘れた広いテラス窓は手前のレースのカーテンがゆらりゆらりとそよいでいた。夜の闇が祓われる藍から紫色を帯びた淡い風信子のグラデーションが窓一面に広がり、その中に、
 ローレライがいた。
 楽器めいた貫く様な高音が揺らぎながら夜明けの空気に溶けて伸びる。詩はないのか言葉では紡がれない音のうねり。波打ち際の砂が足元を浚うのに似た逆らえない力に掬われる、胸か心臓を、掴まれる。高音かと思えば低く根を張る様な音が空気の層になり身体を押す。枝が伸び葉が茂る息吹の音。様々なイメージが押し寄せてきて、陶然とさせる。
 ホテルの宿泊客の眠りを妨げない為であろう、小さな声の独唱なのにそれは驚くほど胸に流れ込んできた。
 ふわりと揺れるレースのカーテンが綺麗な裸体を絶妙に隠すドレスを思わせる。長い髪が海風にそよぐ。歌いながらふわりふわりとゆったりと舞う彼女は音に乗り、風の女主人か女神の様に踊り、歌う。
「……」
 まいったな、と呟く事すら躊躇われ、省吾はベッドの上で頬杖をつく。声フェチ相手にこれは反則である。元から省吾の好みの中央を射抜く様な極上の蜂蜜声が天上の音を奏で、彼女に意識が吸い寄せられる…逆らいようのない引力。
 昨夜の拗ねるわふてるわ逆上するわ唐突に甘えるわ奇声をあげるわ理解不能な暴走の揚げ句電池が切れた様に寝た手に負えない子猫と同一人物とは思えない。だが、腕の中で眠るあどけなくも悩ましい姿は、今の歌姫に重なる。せめて自分だけでもバスタオルなり浴衣なりバスローブなりを着させればいいものを全裸で寝させる暴挙はどうしたものか。事前に抜いておいても滾っていたが、今は更に拙い。
「やりたいなー……」
 初手で安全な男と思われたせいか彼女の要望はエスカレートの一途を辿っている。接吻のお強請りなど全裸同士でしていいものではあるまい。脳内で子猫に変換させているが、それでも時折ぼろは出る。――怖がらせても少し押し通して美味しく食べてしまいたいが、意中の相手持ちでは最初から話にならない。
 歌いながら不意にくるりと弧を描いた彼女と省吾の目が合う。暫しの沈黙の後、顔を真っ赤に染めて胸と下腹部を手で隠そうとしてくちゅんと可愛らしいくしゃみをする彼女に、省吾はベッドから抜け出た。二つのバスタオルを視界の隅で見るが脱衣所には予備のまだ未使用の物があるのは昨夜確認済みな為、わざわざ湿気った物は拾わずにバルコニーへ向かう。
「あ、あ、あ、あの……っ」
「そんな格好で風邪引いたらどうするの」
 真っ赤なまま固まっている彼女をひょいと抱き上げ、省吾はバルコニーから続いている露天風呂へと歩を進める。何時から外にいたのか夏であっても気温は下がる海風に晒されていた為かひんやりとした彼女の肌が寝起きの少しぼけた身体に心地よい、が、冷えは女の大敵と聞く。直前まで歌っていた幻想的な姿と声が嘘の様にうにゃうにゃまごまごと何か蠢いている彼女をちらりと見下ろすと、耳まで真っ赤に染まっている可愛らしい顔がこちらを見上げていた。
「何か?」
「……。伊能さん…何だか……、い、いえ、あの、その……あの……おはようございます……」
 何かを言いかけて口籠ってからの朝の挨拶に省吾は何となく意表を突かれて首を傾ける。
「おはよう」

 かけ湯も適当に浸かったジャグジーの微細な泡が弾ける感触が心地よい。ウッドデッキの観葉植物に囲まれた露天風呂は海に面した壁が取り払われ湯に浸かったままで海が一望出来、かなり贅沢だった。日の出自体は意外と短いが、日の出前の薄明の時間は意外と長い。ざん…と耳に心地よく響く波音を聞く省吾の腕の中の彼女の鼓動が子猫の様に早い。彼女が冷えない様に顎近くまで湯に浸かっている省吾に背を向ける形で乗せてる白い身体が転げ落ちない様に絡めている腕を時折片方だけ解き、水面から出ている豊かな乳房に湯をかける度に、ぴくんと身体が震える。何故だろうか、妙に硬くなっている彼女に省吾は首を傾げた。やはり冷えたのだろうか。
「天音さん、ベッドに戻る?」
「べ、べ、べ、べ、ベッドですかあ!?」
 警戒でぶわりと毛を逆立てるまだ家に馴染んでいない子猫の様な彼女の反応に、暫し省吾は動きを止める。色々と考えてやらねばならない筈なのだが妙に頭が回らない。いや最初に裸で添い寝する様にお強請りしたのは彼女であって、それに比べれば裸と指定せずにまだチェックアウトには早いから一寝入りを薦めるのは可笑しくはない筈だと省吾はぼんやりと考える。
 ふにゃんっと不意に可愛らしい声がした。
 気付くと、乳房を揉んでいた。ここ最近習慣の様にお強請りをされ揉まされていた為、自動的に揉む癖がついているのかもしれない。男の省吾に手に余るずっしりと重みのある豊満な乳房は、相変わらず手にしっとりと馴染みまだうら若き乙女らしい弾力と食べ頃に差し掛かっている柔らかな餅の指にずぶずぶと埋もれさせる卑猥な感触の絶妙な狭間にある。その上で重量感もあるつんと前に突き出す美乳なのだから乳好きには堪らないだろう。だが省吾は違う。いや一般男性として当然前向きに好きではあるが。
「天音さん」
「は、はひ……っ」
「何か、話して」
 そっと乳房を柔らかに揉みながら省吾が彼女の耳元で囁くと、ふみゃあと何とも情けない声が聞こえた。これはこれで可愛らしくはあるのだが今聞きたいのは日本語である。辛抱強く乳房を撫でながら言葉を待つ省吾は横目で海と空を眺めた。藍色の空が払われ風信子からほぼ白へと移っていくグラデーションには雲一つとしてない。今日も暑くなるだろう。彼女に夏の夜空を見せてやる機会を逃したと気付き、省吾はやや残念に思う。学生時代に見た南半球の天の川の話を彼女にしてみたかった。大小のマゼラン雲にエータカリーナ、最大の球状星団であるオメガ星団に定番の南十字星にコールサックとジュエルボックス。恐らく彼女は瞳を輝かせて幸せそうに聞いてくれるのだろう。美声の主は最高の聞き役でもある。
「伊能さんは……」
「はい」
「伊能さんは、アイアンブルーが好きですよね」
「はい……?」
 咄嗟に彼女の言ってる言葉が判らず省吾は首を傾げる。映画か小説のタイトルかと思い返してみるものの該当するものが浮かんでこない。鉄青。何か彼女の周辺では当然存在する何かなのだろうか?
「ネクタイ。青系が多いけれど車のキーホルダーとお揃いの色がアイアンブルーです」
「色名か…よく見てるね」
「顔料の主成分が鉄なんです。だからアイアンブルー。よく言われる青より少しだけ紫の入った濃い青。綺麗な色ですよね…私、あの色、好きです」
 ぽつりぽつりと穏やかに話そうとしている彼女の声が乳房のいい場所を撫でられる度に僅かに揺れる。手触りのよい乳房の感触と絡まり溶け込む囁きの甘い蜂蜜声に頭の芯に心地良い軽い酩酊感が靄の様に漂う。帰社途中の喫茶店や路上で柔らかに微笑む彼女が何を見ているのか、今まであまり考えた事がなかったかもしれない。見られて困る服装はしていないが上流階級のお嬢様から見れば安サラリーマンの平凡な服装だろうに、色であっても誉められたこそばゆさに省吾は苦笑いを浮かべる。特に色には拘りはないつもりだが確かに車のキーホルダーの色は昔から気に入っている、それを気付かれたのが妙にこそばゆい。
「桜」
「はい?」
「天音さんには桜色が似合う」
「……」
 何故か腕の中で身を縮込まらせる彼女にもしかして好きではないのかもしれないと気付き、失敗したかと思った瞬間、手の甲に何かが触れた。
 湯に濡れた、華奢な指。
 指先からつぅと湯が手の甲に伝い落ちてくる。
「私も…桜色……好きです…。桜も大好きで…、その……伊能さんに似合うと言っていただけて嬉しいです……」
 恥ずかし気な声がぽつりぽつりと呟く。
 我儘な子猫の声でもなく、女神の歌声でもなく、密かに音もなく降る淡雪に似た花弁の様な頼りない声に、省吾は乳房を撫でていた手を滑らせて彼女の身体を柔らかく抱き留める。ジャグジーの泡が忙しなく身体の周囲で踊る中、腕の中のしなやかな身体が堪らなくもどかしい。
「ローズクォーツやコンクパールみたいな名の通った石ではないけれど、京都で取れる桜石って綽名の石があるの知ってる? 菫青石仮晶。六角柱状透三連晶。価値なんてないに等しい子供でも買える値段の石で、断面が六枚の花弁に見えるから、五枚でもないけど桜石…物によって茜色や橘色だったりもするけれど、たまに本当に綺麗な桜色の石もある」思い浮かぶままに囁く様に話す省吾に、彼女の反発する様子はなく、ただ静かに聞いているだけの様に思えた。「菫青石…アイオライトなら判るかな。あれが緑泥石や白雲母に……いやつまらない話か」
 ふるっと彼女が小さく首を振る。
「綺麗な石なんですね」
「女の子が好む宝石では、ないんだ」
 恐らく彼女が好きな男は彼女に似合う宝石を贈れる人間なのだろう。別世界の住人を想像しても意味はない。今こうして彼女が身体の重みを預けてくれている事自体がおかしな話で。
「指輪と結婚するわけではありませんよ?」
 こてんと首を傾けて省吾へと顔を向けた彼女の唇が目の前にくる。形良い可愛らしい唇と、白い歯に、小さな舌。これまではグラビアか何かを見ているどこか他人事の気分だったものが、妙に生々しい。これで唇を重ねたらどんな反応をするだろう?と好奇心が疼き、それ以上に欲しくなる。
 不意に、話が途切れた。
 湯に顎近くまで浸からせている省吾と首を傾げている天音の視線が合い、そして離せなくなる。グラスの縁までワインを注いでしまった表面張力の様な危うい緊張は、何処か甘い。零れてしまえ、と悪魔が囁く。全裸の男と女、勃起し続けている分身と、確かにぬるついている彼女の脚の付け根。濡れた綺麗な瞳。頼りなく揺れる唇。ジャグジーの微弱なモーター音と水流音に階下の波音。抱き留めている身体が、柔らかく嫋やかで、艶めかしい。
 昨日の酔っている間の記憶はないそうだが、日焼け止めは記憶にあるらしいのでそこまでは許可が出ていると考えていいのだろうか。
 好きな男さえいなければ。
「……。伊能さん?」
「はい?」
「何だか…今日の伊能さん……」
 こてんこてんと頭を揺らす彼女は困った様に口籠る。全裸でジャグジーに浸かっている男と女にしては微妙な空気が漂い、そんな彼女に省吾は息を漏らす。所詮は偽彼氏なのだなと実感させる甘えた空気だが、それでも彼女と省吾が共にいる為にはその大前提なしではあり得ないのだから仕方ない。――手籠めにしてしまえば割と簡単に手に入る気がしなくもないが、次の瞬間さくりと粛清される確率は非常に高く、そこまで刹那主義には生きられないし、そもそも意中の相手のいる彼女を泣かすつもりにはなれない。
 勃起している男に背に抱かれている状態で彼女が指で水鉄砲を飛ばしている。綺麗に前方に飛ばせない下手な水鉄砲に壊れた噴水の様に真上に湯が跳ねる。
「今日の俺が?」
「……。内緒、です」
 恥ずかしそうに舌足らずに言う声音は甘える子猫そのものの無条件に庇護を求めるものだった。据え膳そのものの分際でこんな甘え方をしてくるのだからタチが悪い。
「えい」軽い力で抱き留めていた省吾の腕から擦り抜けた彼女が向き合う形に貼り付いてきた。省吾の胸板でむにゅりと潰れる柔らかな乳房よりも、腰を跨いだ彼女の下腹部にまだ勃起の収まらない肉棒が密着しているのと、彼女の細腕が首に絡み付いてきたのに省吾は一瞬焦る。「胸が冷えました」
「……。さいですか」
 子供の様に首に抱き着いている彼女が何を考えているのか判らず呆然とする省吾は、更にしがみついてくる彼女にその身体を一応抱き留める。
「伊能さん」
「はい?」
「月が綺麗ですね」
 有名な文豪の翻訳を思い出して暫し返答を悩み、省吾は空を見上げた。ただ月を誉めている可能性はゼロではないし、そもそも意中の男のいる令嬢が自分に言ってくる内容ではない。期待するのも情けないが無難に返すのも躊躇われる。
「――寒い時は、しっかり暖を取りなさい」
 少し窘める声を漏らしながら、省吾は彼女の身体を抱き寄せた。


   『密かに想いを・おまけ』

「あの……っ、あのっ」
「はい?」
 湯の中でじっと抱き付かれ続けていた省吾は不意の彼女の声に首を軽く傾げた。
「昨日、私何か失礼な事をしてしまいましたでしょうかぁ!?」
「藪から棒に…。どうしたのかな?」
「伊能さんが…ちょっと変です」
 日本語で話してきている筈なのに子猫がにゃあにゃあと小さな声で文句を垂れながら甘えてきている様に聞こえるのは何故だろう。これが実際に子猫だとしたら確実にお持ち帰りして飼うのは確実なのだがそうはいかない。
「……。逆レイプ未遂?」
「え……えええええええええええええええええええ……むぐっ!」
 他宿泊客の安眠妨害にならない様に抑え続けていた筈だった所の不意の大声に慌てて彼女の口を塞ごうとした省吾は首にがっちりとしがみつかれ解けない体勢に、数瞬暴れた後、覚悟を決めて彼女の唇を自分の唇で塞いだ。
 恐慌状態の彼女の声がぴたりと止み、暫しの硬直の後、くってりと腕の中に沈み込む。
 声を抑えさせる為だけの行為で、悪戯心の欠片もない状態にそっと唇を離した省吾はまるで糸の切れた人形の様な彼女の身体を恐る恐る抱きなおす。彼女がどの様な表情をしているのか確認してみたいが、怖くて出来ない。怒っているのならばいいがこれで偽彼氏程度に唇を奪われて泣かれていた日にはかなり落ち込める自信がある。どさくさ紛れ的に奪ってしまったが小さな唇はとても柔らかで、達成感よりも先に罪悪感が込み上げ、それなのに下半身のそれは限界まで滾っているのが情けない。
「……。天音、さん?」
 暫くそのまま抱き留めてから恐る恐る声をかけた省吾は、腕の中の彼女が顔を真っ赤にして放心状態になっているのに漸く気付いた。

 チェックアウト時間まで彼女を寝かせ、怪しんでいる目で見ている支配人に礼を告げた省吾はそのままホテルを後にした。ラジオを流そうとし、彼女の安眠を妨げない様に何もかけずに静かに運転をする。週末の渋滞に引っかかる前にどうにか戻れるであろう早めの時間の海岸線は僅かに開けた窓の海風が心地よい。――戻れば昨日片づけられなかった仕事が待ち受けているのは確実である。
 自分で処理すれば早い仕事に手を出せない面倒臭さに眉間に皺を寄せそうになり、信号待ちの間ちらりと助手席で眠る彼女を盗み見る。出来れば送り届ける前に彼女から先刻の緊急避難行動の見解を聞きたい所である。最低限でも、許されているかどうかを。だがこれで罵られるのも若干キツい。
『月が綺麗ですね』
 それが愛の告白ならば有難いのだが、そこまで世の中上手くはいきはしない。
「……。『今ならきっと手が届くでしょう』」
 ぽつりと呟き、省吾はアクセルを踏んだ。

Next 116『最後のお別れ』
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