淀調 美神の悲劇 


はい、淀調です。いるいるサンご紹介の写真、早速拝見してまいりました。コリンのこの表情見て

ましたらどうしたことか、唐突に思い出したのが黒田官兵衛、のちの如水。しつけの厳しい地方の

小豪族の家に生まれて若い頃は挙措振る舞い折り目正しく、涼やかだけれどもどこか堅苦しいとこ

ろあり、それが歳を重ねるごとに若やいできて最後は二十歳の青年のような、言われた人。国も時

代も全く違うけれども、そんな雰囲気を感じさせてくれました。

さて彼の若いときの「ヴァルモン」。彼に敢えて色悪の演技をさせなかったフォアマン監督、それ

はそれだけの理由があったのね。ヴァルモンはすべて持ってる。コリン・ファース自身が言うてる

でしょう、「ヴァルモン子爵は、若くて裕福で賢く、女性や子どもに愛され、美貌で寛大で、正直で

センチメンタルで、誰もその魅力には抵抗できない。彼はそれゆえに命を失うのだ」(現代教養文

庫1519 世界映画俳優全史 現代編2 257ページ)田山さんは彼自身、役の二枚目性を強調して

る、とコメントしておられますが、ここのところも少し突っ込んで欲しかった。それだけすべて持

ってる男、何も欠けたものがない男が、どうしてくだらん決闘騒ぎを起こして犬死するか。どんな

格好つけたってあんな、浮浪者3人引き連れて二日酔い(?)の翌朝でただの騎士に刺されて死ぬ

なんてくだらない、それもフォアマン版とは違う、あっという間の出来事、もののはずみ言うてもい

いくらい。すべて持ってる男が死んで、ダンスニーもジェルクールも永らえるというこの世の中。

そのヴァルモンの転落の引き金を引いたのは貞淑なトゥルベール夫人ですが、それはあくまでうわ

べだけのことで、それは本当は単なるきっかけに過ぎない。ヴァルモンの死は限りなく自死に近い

もの。女たちに踊らされていると見えて、その実踊ることを選んだのは子爵自身。色悪の演技をし

てはそれが出ない、出せると思って選んだのがコリンですね。

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もう少し喋りましょうか。光源氏いるでしょう、帝の御子で血筋美貌ともに揃ってる。葵上いう奥

さんもいて他にも上等の愛人がいて、それでたかだか受領の後妻、大して美しくもなく歳も若くな

い空蝉に手を出す。それも言い草がずいぶんひどい。自分は何をしても許される身、お前の夫だっ

て名誉に思うだろう、位のことを言う。傍若無人、思い上がってて、まあそれがあとでしっぺ返しを

喰らうわけですが、逃げられちゃうと替わりに傍らに寝てたもうひとりの娘に手を出す。めちゃく

ちゃですね。光源氏はどうしてそう無茶をやるか。平安の昔で公家の世界だからヴァルモンみたい

に切り殺されないで済んでますけど、根っこにあるのは同じもの。何でもあって求めて与えられな

いものはない。いいなあ、思うかも知れんけれども若い男がこんなに辛いことはない。勿論、生ま

れたときからこの生活ですから本人は意識してるわけじゃない、しかし思春期のあたりから鬱屈が

無意識の中にたまってたまってたまっていく。心身が変化してしかし必要と思われるもの、異性の

心も肉体もいとも簡単に与えられる。こんなんでいいのか、自分で長い道のりを追って追って掴ま

えたい、言う衝動が出口を求めて徘徊するようになりますね。もう、正直言うたらヴァルモンは女

の好意もわずらわしいの、嫌われたほうがいいの、だからわざとみんなの逆、逆行ってみる。その

もどかしさ、絶望の深さがちらちらしてる。だからトゥルベール夫人、あっさり落ちたもんで少し

も嬉しくない、むしろ夫の元に帰っていって初めて心底本気になる。その一部始終見てたら痛まし

い、何でも持ってる男が若さと言う暴君と戦ってる、生きる、言うひりつくような辛さが豪奢な衣

装に包んだコリン・ファースの全身から匂い出てました。

その辛さはまだコリン・ファース自身が引きずってる。ダアシイ役で大当たりとって、嬉しいけど

嬉しくない。いっそこの顔歪んでくれたらいい、くらいは心の片隅で思ってたりする。だから恋に

落ちたシェイクスピアのエセックス卿、あれはダアシイの陰画、わざわざ不恰好な笑いものを進んで

演ってのけるその凄さ。これこそコリン・ファースにあってレイフ・ファインズにないもの。

そしてまた感じるフォアマン監督の胸の内は次回。

それまで皆様、ごきげんよう。(7月05日(水)20時23分20秒)

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淀調 フォアマンの望郷・二つの祖国


お久しぶりの淀調です。草木も枯れるこの猛暑、シネマも夏枯れでこの機会にヴィデオで

名作の旅をしようと思いつつもTHUTAYAへの道のりが遠く感じる今日この頃・・・

「マン・オン・ザ・ムーン」あっという間に終わりましたね。もう少し保つか思いましたが駄目で

した。役者は良くて、題材も悪くない、でもアメリカの笑いはアメリカで、しかもこの場合は少数の

人にしかしか通じない。それでいいと作ったフォアマン、まるで自分を重ね合わせてるみたい。

フォアマンは「カッコ−の巣の上で」「アマデウス」撮ってアカデミー賞獲りました。「アマデウ

ス」ロケはプラハ、自分が捨てた故郷、そして聞かれて答えました。「もし招かれるなら撮りたい。

ただしアメリカの監督として、ね」「自分はいつもアメリカの監督なんだ、と思って撮るように

している」プラハに残っていたら到底得られなかった栄誉、ハリウッドならではの規模、しかし「ア

マデウス」が受けて受けてアメリカ人が沢山ツアーを組んでプラハへウイーンへ行ったとき、旧大

陸の人間はなんと言ったか。「ヤンキーが来て、ああ、この建物は「アマデウス」で見たね、と言う。

馬鹿な奴らだ、この建物は「アマデウス」の出来る何百年も前からここにあるんだ」

まあ皆さん、フォアマンこれを聞いてどう思ったでしょう。言うまでもない、その答えが「ヴァルモ

ン」ですね。この二つの作品、つなげてみたらなんとも何とも痛ましい。コケないわけがない題材、

寄ろうとしないもどかしいキャメラ、投げ出されて連結しようのないエピソード、それが世界中で喝

采を浴びたモーツァルトの後にくる。「アマデウス」、モーツァルトに騙されて、その音楽に騙さ

れて皆崇高な物語を見た気になりますね。しかしこれは、さあどうでしょう、オペラで言えばモー

ツァルトには遠く及ばず人情世話物ヴェリズモ・オペラ、しかも物語の源は、江守徹がステージ上を

転がりまわってそれでもモーツァルトに見える仕掛けのSHAFFERの脚本。このアイディアが先にあ

って、音楽が映像が来る。そのどれもが何百年の歴史に耐えて生き残ったものばかり、観客がひれ

伏す間を縫って単純化された男二人の構図が染み込む仕掛け。この観客の先入観を縦横に利用し尽

くした「アマデウス」、しかし真実はそんなに単純ではない、とフォアマンは思ったかも知らん。

今度はヴェリズモではない、皆にわからなくてもいい、竹を割ったような作品ではなくて、曖昧模糊

として棺を覆ったあとでも分からなかった、言われるような作品を撮りたい思ったかも知らんの

ね。なぜならそれこそがヨーロッパ、そしてその文化の粋はフランスの宮廷文化、その上で踊る人

間達の心理劇、これを撮ってこそのヨーロッパ、あるいはフォアマンはそう思ったかもしれない。

しかし悲しいかな、フォアマンはハリウッドの監督、その市場はアメリカ大陸、旧大陸の人間は彼を

自分達の仲間だとは思わない。両大陸の人間とも「ヴァルモン」がヴェリズモを脱してドビッシ−

の「ぺレアスとメリザンド」を目指したものだとは考えもしない。叫ばず、歌わず、暗示して終わる

映画、主人公ヴァルモンが去ったあともすべて世にことはなく、彼がそのために命を落とした女性は

薔薇の花1輪を奉げたのみ.セシルに宿った子供はフォアマンの感傷。そういう「ヴァルモン」を

作って、彼は再びアメリカに戻っていく。

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そしてコリン・ファース、墓石が映って、エンドマークが出て、これでもうお仕舞い?まだなにかあ

るんじゃないの?と言う終わり方。映画が終わって観客が帰る、そしたら墓の蓋が開いてコリンの

足がどんどんどんどん歩いて歩いて、海を越えたらコヴェント・ガーデン、ジャンパー姿でもじゃも

じゃ頭のコリンがマルボロ吸いながら壁にもたれて大道芸人が歌うラクメ「花の歌」を聞いてる。

だれも彼に注目しない、それがいかにも心地よさそうなコリンの顔。

「ヴァルモン」はそんな映画でしたね。(7月22日(土)00時23分24秒)


淀調番外編 黒い首飾り


はい、お久しぶり。淀調でございます。

大家のいるいるサンを始め、皆様暑中お見舞い申し上げます。

さて「ヴァルモン」で落としたことが一つ。腐っても鯛、フォアマンの意地が出ていたキャスティ

ング、それはメルトゥイユ夫人の腹心の侍女を黒人にしたことですね。これはね、アングロ・サクソ

ンには出来ない芸当。隠微な色事の助手に黒人女を持ってくる。母親をオペラに誘い出しておい

て、セシルとダンスニーを密会させる。導きいれたのはあぶなヴェネチア絵画に埋め尽くされた小

部屋。薄物のベビードール風ドレスをセシルに着せて、全身眺め回して歯茎むき出して、メルトゥ

イユ夫人はご趣味が宜しいから、言うのね。そしてダンスニーが入ってくる。ごゆっくり、と出て

行って実は部屋の壁にかけてあるカーニバル用マスクのところから覗いてる。大きな白目の中の

黒い瞳がきょろきょろきょろきょろ動いてるの。もうね、侍女言うてもこれは「風と共に去りぬ」

のあの恰幅の良いマミーなんかとはまったく別の生き物なのね。地中海の風を受けて育ったあの

ヴェネチアのけだるくて甘い香りが黒い侍女の服来て動いてるの。だけどアネット・ベニングだ

からもう一押しが効かないのね。でもこれは、おや、と目ざましかった場面でした。

これがあるからアイヴォリー監督もジェファーソン・イン・パリ=「ある大統領の情事」作ったで

しょう、アメリカの大統領がパリで雇った娘と同じ年頃の黒人の小間使いに手をつける話。これな

んか、アメリカの建国時の英雄の大大タブーだったから、出来はともかくよく作った思います。

黒人使うのには昔から型があって、ジャズクラブのバンドマンや芸人達に始まり、虐げられる役柄、

底抜けの馬鹿、小ずるい悪党、尻軽女、等々ミュージシャンを除いてはあんまり凄味もないし、頭も

良くない。山田詠美さんを読むまでもなく、「ポギーとベス」のパターンね。ポギーに大事にされ

てせっかく堅気に収まってたのに、他の男に誘惑されてニューヨークに逃げちゃう。それが黒人、

いう潜在意識が観る方にもあって、だから「カラーパープル」もきれいすぎ、と酷評されました。

だからびっくりしたの「ラスト・ハーレム」。フランス、イタリア、トルコ合作でロケもせなならん

から襟を正したところもあり、題名から想像するよりはるかに真面目。オスマン帝国の陥落・ハー

レム版みたい。語り口はシエラザード、過去と未来を行き来しながら語られた御伽噺ね。それで

びっくりしたのはヒロインのサフィエと恋に落ちる宦官ナディール。実際には頭良い黒人は一杯い

る。ブッシュ陣営の参謀も若い黒人女性の大学教授。しかしスクリーンで一目見て、ああ、これは

頭良さそうやなあ、秀才やなあ、気品あるわあ思える、いうのはまずいない。第一使わないものね。

それがこのナディールさん、突き放してみればたかがハーレムの狭い世界の出世だけれど、見るか

らに官僚の顔なの。帽子被って詰襟の服着て、鼻の下が異様に長いのだけれど、その下、厚くてしか

し形の良い引き結ばれた唇がきて絶妙のバランスを保ってる。服脱いで帽子脱いでタコ坊主になっ

たらイメージ崩れましたけど、それは彼がもはや男ではないということでやや救われてる。この話、

だからそのナディールという男の悲劇なのね。ハーレムという籠の中で生きるように身体を変えてしまって、

大願成就目前にしてその籠が壊れてしまう。サフィエとの愛も彼を救えない。組織の中

の男の悲劇、それをハーレムの香油にくるんで見せた大人の御伽噺。そこまで深読みしなくても、

ヴェルディの椿姫を観る皇帝、色とりどりの衣装、調度が絢爛豪華で目の保養、機会があったら観て

下さい。

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さて、この品あるナディールに比べたら「Travels with My Aunt」のマギー・スミスの用心

棒、期待して観ただけに悲しい仕上がり。王様みたいにホテルで威張って立ってたはずがマギー・ス

ミスのフラットでピアノ弾いてるミュージシャン崩れ。70年代アメリカ映画の限界ですね。まあ、

それをいうならそもそも原作、確かに彼に訛りのある言葉を喋らせてますが、邦訳になると「だんべ

え」調なのね。これじゃお百姓と変わらないじゃないですか。お百姓だって、土地が違えば違う方

言しゃべるでしょ、怠慢だねえ。でも話は「情事の終わり」のグレアム・グリーンですから、一筋縄

ではいかない。この作品に出てくるマギー・スミスを観たら今の謹厳実直な彼女がどんなに笑える

か。

次回は「マギースミス版・悪徳の栄え」をいたします。それでは皆さん、ごきげんよろしゅう。

(8月 4日(金)15時43分48秒)

淀調さまがお書きの「マギースミス版・悪徳の栄え」の過去ログを消してしまったと、9月に書き込みましたが

YOKOさまが過去ログをコピーなさっていたので、今日(11/7)頂きました!!

YOKOさま、どうもありがとうございました。(2001.11.7)


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