アスカが日本を去って、4年が過ぎた。 シンジたちも無事高校生となり、それぞれの生活を送っていた。 現代技術というものはすばらしいもので、鈴原トウジも普通の人と変わらぬ生活を送っている。 自分の足が義足になったことを、トウジはまったく気にしてはいなかった。それはトウジなりの思いやりでもあるのだが、今の彼にはそれ以上の悩みがあったのも事実だった。 それはトウジの妹の事である。 サードインパクトと前後してここ京都に疎開したトウジたちであったが、その混乱のさなか、彼の妹は行方知れずとなっていた。 それでも、トウジは必ず生きている、必ず会えると信じている。それが彼の何よりの強さだろう。 心配をかけたくない、という一面もあって、その事をトウジはヒカリ以外には告げなかった。 ヒカリにだけはその事を相談した、ということから察するに、この二人の仲もまたうまくいっているように見える。 実際は、すっかり恋人同士、という雰囲気のシンジとマナに対し、まだまだいい友達の仲を抜けきってはいないのだが。 シンジとマナ、トウジ、ヒカリの4人は同じ高校に進学していた。 ケンスケだけは別の学校だったが、同じ街に住んでいるのだ、それで親交が途切れるわけもない。 ちなみに余談だが、ケンスケだけが別の高校に進んだのは、決して自分だけ彼女がいないから、といったような理由ではない。多分…。 なにはともあれ中学時代同様、いやそれ以上に、シンジたちは幸せな時をすごしてした。 けれどその裏側で、少しずつ、しかし確かに何かが胎動を始めていた。 シンジたちは、無論、その事実をまだ知らなかった。 ちょうどそのころ第3新東京市跡。 「伊吹君かね。」 背後に人の気配を感じ、冬月はたずねた。マヤか、と思ったのはなんとなく女性のような気がしたからである。 理屈ではない。が、なんとなく感じる、という時がある。 その冬月の直感どおり、現れたのは一人の女性であった。いや女の子、というべきかもそれない。どう見ても彼女は中学生ぐらいにしか見えなかったからである。 当然伊吹マヤではない。 流れるような黒髪の美少女。もちろん初対面なのだが、冬月はどこかで彼女を見たことがあるような気がした。 「君は?」 中学生がこんなところにいる時点で異常なのだが、なぜか冬月はその少女に不信感を感じなかった。それは彼女の持つ雰囲気がそうさせていたのかもしれない。 「そうね。」 しばし少女は考える。 「"綾波レイ"。今のところは、そう呼んで下さい。」 長い黒髪を揺らめかせて少女はそう答えた。 いかにも怪しい自己紹介なのだが、何か親近感を覚える冬月。 幾分崩壊しかかった司令室。建物の隙間から光が射し込んできて、少女の顔を映し出す。 はっきりと少女の顔を認識し、冬月はどこでこの少女を見たか思い当たった。 正確にはこの少女を、ではない。ところどころが知っている人間によく似ている、と言うことに思い当たったのだ。 それは少女が言うように綾波レイの面影であり、そして碇ユイの顔立ちであり、碇シンジの雰囲気であり、そして、霧島マナの面影であった。 仮にも組織のトップに立つものが、直感だけで行動を起こすのは避けねばならない。だが、冬月にはその直感で、彼女が味方であると感じられた。 その直感が彼女の持つ、ユイの面影に起因しているのに気付き、苦笑いしながらも、冬月には彼女が信じられるような気がした。 もちろん、その理由はユイに似ているから、という短絡的なものではない。 冬月とて幾多の修羅場をくぐっている。人を見る目は確かであった。その冬月が、これだけ怪しい状況にもかかわらず、彼女に危険な空気を感じなかった。それが彼女を信じた理由である。 だから冬月は彼女の正体については、詮索するのをやめた。 「で、なぜここにいるのかね?」 無論、全ての詮索を止めたわけではない。聞かなければならないこともある。 「ここにくれば誰かしらに会えると思ったからです。むやみに日本中、いや、世界中を探し回るよりは確実でしょう?」 「探す?誰を?なんのために?」 だがその問いには彼女は答えなかった。 「"奴等"を、追ってきたんです。」 「"奴等"?」 「たぶん、あなたが考えている通りの連中ですよ。」 「動き出したのか、あの連中が。」 「そうです。」 そしてレイは一息つく。 「彼らは既に、"方舟"の"鍵"も手に入れています。」 その意味が、冬月には判った。だが、判るからこそ、冬月には理解できないことでもあった。 「そんなはずはない。"鍵"はエヴァのパイロット同様、14歳にならなければその資格は得られんはずだ。」 その言葉にレイは冷静に答える。 「そうです。というよりもエヴァのコントロールシステム自体が、方舟のシステムを簡素化したもの。そしてそのシステムの鍵を握るのは"心"。」 その事実は冬月も知っている。もっとも今は冬月しかその事実を知らないが。 元々、"方舟"の存在とその意味を知っているのは冬月のほかにはゲンドウ、ユイの他に赤木親子のみである。 そしてそのいずれも既にこの世にはない。 アダム、エヴァ、そして方舟。そのいずれもが人類を滅ぼすものでありながら、それらを利用して、冬月たちは生き延びてきたのだ。 「そうだ、大人と子供の境目、不安定な、だがそれゆえに純粋な心だけが、システムを動かしうる。だが!」 幾分きつい口調になる冬月。だがレイはそれに動じる様子もない。 「そう、だからエヴァのパイロットたちはみな、母親のいない14歳の子供ばかり。より不安定で、より純粋な"心"を求めたから。」 「だが、心もそうだが、真に必要とされるのは"血"だ。エヴァはまだしも方舟はその"血"なくして起動することはできん。」 「そのとおりです、冬月さん。"神"の"血"をひく、それも純血の、14歳の子供。"方舟"を動かせるのはその人物のみ。」 「ならばなぜ、奴等に"鍵"が手に入れられる?"鍵"となりうる人物は、まだ生まれてすらいないんだぞ。」 その言葉に、今まで表情を変えようともしなかったレイが、悲しそうな顔を見せる。 「"鍵"は私の兄です。」 その言葉で冬月はレイの正体を悟った。 「会わせて下さい。碇シンジと霧島マナに。私は彼らを守るために来たのですから。」 シンジとマナの名を口にした時、レイの目からは一筋の涙が零れ出た。 その涙で、冬月は彼女が必死に感情を押し殺そうとしていたのを知った。 目の前にいる少女は、冬月の知る綾波レイとはまったくの別人の、一人の普通の少女に過ぎないのだと。 私立常盤学園高校。 シンジたちの通う学校である。 鞍馬山のほど近くにあるこの学校は、シンジたちにはどこか箱根の山々に囲まれた第3新東京市を思い出させる。 夕暮れ時の校門近く。そこは帰路に就く学生で賑わっている。 もっとも、まっすぐ帰路につこうというものは少なく、これからどこへいこうか、といった話題で話に花が咲いている。 シンジやマナなどは、特に家に帰ったとて誰が待っているわけでもない。一緒に暮らしている家族がお互いしかいないのだからそれも仕方のないことで、別段それに寂しさを感じているというわけではない。 珍しく今日はトウジたちの姿がない。 一緒に暮らしているとはいえ、二人きりになれるのが嬉しいのか、マナはシンジの腕に自分の腕を絡ませる。 せっかくだから、二人でどこかよって帰ろうか、などと考えていたシンジであったが、不意に、校門のところに、見覚えのある顔を見つける。 「冬月さん!」 だが、その冬月の後ろに、二人は見知らぬ少女の姿を見つけた。 「冬月さん、彼女は?」 シンジに問われて、冬月は少女を紹介する。 「ああ、私の友人の娘でね、綾波レイという。」 とたんに不審そうな顔をするシンジ。まあ、いきなり見たこともない少女を連れてこられて、挙げ句の果てに"綾波レイ"と紹介されれば、不審に思うな、というほうが無理であろう。 「綾波、レイです。よろしく。」 そんなシンジの気持ちを知ってか知らずか、笑顔で挨拶するレイ。 そんな笑顔に、先に感じた不信感が薄れるシンジ。当然、後ろ手マナがにらんでいるのには気付いていない、 「いろいろとあってな。彼女を君たちのところに住まわせてやって欲しい。」 シンジやマナとて、"いろいろあった"身である。いまさら他人をあれこれと詮索しても始まらない。 「ええ、僕はかまいませんけど。」 そう言ってシンジはマナのほうを振り向く。 さっきまで怖い顔でシンジをにらんでいたマナだったが、いきなり振られ、慌てて笑顔を作る。 彼女とて、冬月とは浅からぬ縁がある、実際、加持亡き後彼女の面倒を見てくれていたのは冬月なのだ。その冬月の頼みとあらば、断るわけにもいかない。 「それはもう、喜んで。」 内心はともかく、快く承諾するマナ。 「ありがとうございます、シンジさん、マナさん。」 そう言ってレイは微笑んだ。 『あれ?』 その笑顔に、いやそのレイの瞳に、マナは何か違和感のようなものを感じていた。 シンジは元々こういったことに鈍く、レイが誰かに似てる、などということは思いもよらない。あえて言うならば、先入観があるからか、綾波レイに似ている、と思った程度である。 一方のマナであるが、彼女は綾波レイとは親しくなかったし、碇ユイの顔も知らない。シンジに似ている、というのはさすがに考えがいたらない。 だからなおさら感じるのは、自分に似ている、という感覚と、幾ばくかの懐かしさのようなものであった。 まあ、世の中には似ている人もいるわけだし、そんなことをいちいち気にしていたら始まらない。 マナが感じたのは、似ている、という感覚以上のものであった。だがさすがにそれ以上の事は分からない。しかし、それが妙にマナに安心感を与えていた。 「あの・・・」 不意にレイが話し掛けてくる。 「え、なに?」 その言葉に反応するシンジ。 「私、京都ってはじめてなもんで。案内してもらえます?」 言うが早いか、彼女はシンジの腕を取る。 その仕種が、堪えきれない風というか、妙にはしゃいでいるというか、そんな風にマナには感じられた。 初対面でのこの態度、そこに4年前の自分を見出したせいもあるかもしれない。 一方シンジは、ちょっと困ったような表情をマナのほうへ向ける。 「いいんじゃない、行ってくれば。私は、夕飯の買い物もあるし、一緒に行けないけど。」 そのマナの言葉に、ますます困った顔をするシンジ。一つため息を吐くと、レイを見やる。 だが、不思議なことに、妙にはしゃぐレイの顔を見ているうちに、なぜだか安らぐような気分を、シンジは覚えていた。 一方のマナは、なぜ、自分がそんな事を言ったかよく分かっていない。だが、なんとなくレイの顔を見ているうちに、シンジと二人きりにさせてやりたいと思ったのだ。 結局シンジとレイは、二人連れだって、京都の街へと向かった。 後には、マナと冬月だけが残されていた。 「すまないな、せっかくの二人きりの生活を邪魔したみたいで。」 開口一番、冬月はそう言って謝った。 「いえ。いいんです。それより彼女、何者なんです?」 その問いに、冬月は少々渋い表情を見せる。 「すまん、今は言えん。だが、敵ではないことは確かだ。」 「それは、なんとなく判ります。」 「"兵士"としての勘かね。」 少々嫌味っぽく、冬月は尋ねた。 「いえ、"女"としての勘です。」 それに堪えた様子もなく、マナはそう言いきる。 「女、か。」 おもわず自分の妻を思い出す冬月。彼女も、密かにユイに想いを寄せる自分の気持ちを見抜いていたのだろうか。 おそらくはそうなのだろう、その上で何もないように振る舞う。 所詮、男など女の手のひらの上で遊ばれているものなのかも知れん。そう考え、冬月は苦笑する。 「シンジが、好きな人が絡むと、どうしても過敏なぐらい敏感に働くんですよ。」 そう言ってシンジの去った方角を見つめる。 「だから、アスカを追い出した、か。」 それが、マナにとっていかにキツク、酷な言葉であるか、判らない冬月ではなかったが、思わずそんな言葉が漏れてしまう。 失言だった、と謝ろうと思ったが、その冬月をマナの言葉が制した。 「そうですね。どんな言い訳をしてもそれが事実。私は、シンジを失うのが怖かった。シンジが、好きなんです。」 悪く言えば開き直りである。だが、それは裏返してみれば自分の気持ちに素直だとも言える。 アスカが渇望し、結局得られなかったものがそこにはあった。 「なるほどな。だが、それならなぜ、レイをシンジ君と行かせたんだ?」 「違うんですよ、あの子は。」 「違う?」 そう聞き返しながら、冬月にはマナが何を感じたのか、判るような気がした。 その上で、改めて"女の勘"というものに敬服した。 自分が長年にわたって身につけた洞察力、それに基づいた判断力。それらを駆使することで、冬月はレイの正体を悟った。 だがそれを、まだうまく言葉には表せていないようだが、直感だけでマナは見抜いているのである。 「確かにあの子はシンジが好きなんでしょう。でも、それは私やアスカさんのシンジへの想いとは別物のような気がするんです。」 どこか、自分の、4年前の、二人の友人への想いに似ている、そんな気がマナはしていた。 二人の友人。 浅利ケイタ。 そしてムサシ。ムサシ・リー・ストラスバーグ。 ムサシへの想いを、恋心だと思った時期もあった。 だが、シンジと出会い、それは違うと感じた。 それが"家族"への想いであると知ったのだ。 広い意味で言えば、マナやアスカがシンジに求めているのも、"家族"という形である。 だが、この二つの"家族"の間には微妙な違いがあった。 生まれながらに与えられたものと、自分が生きていく間に新たに得るものである。 前者は父であり、母であり、兄弟である。そして後者があらわすものは夫であり、妻であり、子供である。 無論、どちらも大切なものには違いない。だが、両者には明確な違いがある。 兄弟や、子供、というのは多少ニュアンスが違ってくるが、親がやがてその元から巣立っていくものであるのに対し、夫や妻というものは帰って行く場所であるということである。 結局ムサシに抱いていたマナの想いは、兄を慕う妹のような心境である。 ようはブラコンなのだ。どちらかというとファザコンに近いかもしれない。 レイに安心感を感じるのは、レイの想いがそれに近いと感じるからである。 それはシンジにも言える話で、彼がレイに好意を持つとしても、それは妹などに対するもの以上にはならないという確信がある。 マナが自分に自信があるから、自分だけがシンジに愛されるから、などとうぬぼれているわけではない。 シンジの内面をよく知っているからだ。 シンジの心は、まだ未成熟なのだ。 だがそれはシンジだけの話でも、シンジが悪いというわけでもない。 中学生ぐらいの年頃だと、大体同年代の女の子に比べ、男の子、というのは子供っぽいものなのだから。 シンジは今18である。多少そう言った面の発育が遅い、というきらいははあるが、それが異常というわけではない。 だがそれが、特にアスカにとって不幸なことだったのは間違いない。 シンジにとってアスカは大事な存在であったが、それはあくまで"姉"のような存在としてである。 極端な言い方をしてしまえばミサトやマヤと同じ、ということになる。 そしてシンジにとってのアスカは、結局"姉"としての立場から脱却できなかった。 たいしてマナは、そのシンジの未成熟さこそが幸運だったといえる。 シンジがマナにひかれたのはそこに"母"の面影を見たから。その意味ではここまではアスカとそう変わりない。 だが、マナ自身も感じていることがある。 自分は母の器ではないと。 もちろん、子供ができれば変わっていくだろうし、そうでなければ困るのだが、少なくとも今の、そしてあのころの自分にシンジの母親は務まらない。 良くも悪くも"女の子"なのだと思う。 母と似た外見を持ちながら、内面は女の子。逆を言えば、そのギャップこそが、シンジにマナを"女"として認識させたといえる。 今のシンジは女性を女性として見きれていない。ある意味シンジにとってはマナこそが特異な存在なのだ。 雰囲気こそ似てるが、マナはレイの中にそういう特異さは感じなかった。 どちらかというと、どちらも、内面も外見も女の子なのだ。 そうなるとあとは妹か姉、という見方になる。どこかシンジにはそんなところがある。それがマナの思いだった。 シンジがアスカではなく、マナを選んだ理由もシンジのそんな部分にあるとマナは考えていた。 その裏側には、実はきわめて残酷な、辛辣な真実があったのだが。 さすがのマナも、アスカに対するシンジの複雑な思いすべてと、そしてその原因が自分にあるということまでは、見抜けていなかったのである。 「大丈夫です。」 不意にマナはそう言った、 自分に言い聞かせる、というより、確信と自信に満ちた言葉のように冬月には思えた。 そしてその確信は、実はまったく正しい。 しかしその正しすぎる確信が、後にシンジとの間にすれ違いを生むことも、マナはまだ、気付いてはいなかった。 |