再び、京都 『金剛カナ』 表札にはそう書かれていた。 そしてシンジが冬月から渡された住所にも確かにそう書かれていた。 「ここ、でいいんだよね?」 シンジの問いにアスカは相変わらず口をきこうとはしない。 「父さんや、加持さんの知り合いらしいけど、どんな人なのかな?」 「どんな女でも、アタシには関係ないわ。」 不機嫌そうな声で、ようやくアスカが口を開く。 「いや、ただ、父さんたちとどういう関係なのかな・・・なんて思って。加持さんの、昔の、恋人、とか。」 「アンタバカァ?なにくだらないこと言ってんのよ!」 実際のところアスカとて気にならないわけはない。むしろシンジ以上に興味があるのだ。但し好意的な意味ではない。 一つは、くしくも今シンジが行った通りの理由。今となっては加持にそうこだわりはないが、好きだった、いや好きだと思っていた男性に、自分の知らぬとこに女性がいる、というのはやはり面白いものではない。 ゲンドウも絡んでいるのだし、シンジが言うようなことはないだろう、とは思うが、ミサトのことも含め、そのあたりのことで加持が安心できる男でないのもまた事実だ。 つまり、女性関係において、全幅の信頼を置けない、ということである。 ゲンドウの愛人、という可能性もなくはないのだが、さすがにそこまでの発想は出てこない。 そんな心配があったから、ここに来るまで彼女は口を開こうとはしなかった。腹を立てたのは、シンジの言動、というより、そんな自分の気持ちに全く気付かないシンジの鈍感さに対してである。 自分に比べ、シンジはなんでお子様なのだろう、と。 だが、本当の心配、本当に腹を立てた理由は実はまた別にある。 加持よりももっと直接的、現実的な問題。そう、シンジとの、関係である。 おそらくは、いや間違いなくシンジは気付いてはいないだろう。だが、アスカにはシンジの居場所、という冬月の言葉が引っかかっていた。 それはつまり、シンジとこの女性との間に何らかの繋がりがある可能性を示している。 更に言うなら、シンジにとってその女性の存在が、けっして軽くないということも。 確信ではないが、自分の居場所がなくなる、自分がシンジの側にいられなくなる、そんな不安な気持ちがある。 「ごめん。」 シンジは謝るが、別にそれは自分の気持ちを察してくれたからではない。 それがアスカを余計に苛立たせた。 『なせこいつはこんなに鈍いのだろう。』と。そして、アスカ自身認めていない、けれど、もっと強い思い。 『どうして自分はこんな男を好きになってしまったのだろう。』 「とにかく、この人に会わなきゃ、ね。」 「あ、あんたが鳴らしなさいよ。元々あんたがここに来なきゃいけなかったんだから。」 「う、うん」 シンジの声に我に返るアスカ。そしてシンジはアスカに言われるままにベルを鳴らす。 「ハイ、金剛です。」 インターフォンの向うから返ってきた声は、若い女性の声であった。アスカはその声をどこかで聞いたような気がした。それが不安をいっそう募らせる。 「あの、僕、加持さんの、えっと、なんていうか・・・」 もはや父へのわだかまりはない、はずなのだが、なぜか加持の名を出すシンジ。 元々人付き合いの下手なシンジである。初対面ならなおさら、緊張して言葉も考えもまとまらない。 アスカが苛立つほどにしどろもどろになるシンジ。だが、事態は意外なところから進展を見せる。 「シンジ?」 「え?」 不意に自分の名を呼ばれ、驚くシンジ。呼んだのはアスカではない、インターフォンの向うの女性である。 無論、まだシンジは自分の名を名乗っていない。 「やっぱり、シンジなのね?」 「う、うん」 問われて思わずシンジが答える。 「今。行くね。」 明るい、嬉しそうな声が返ってくる。 やがて、 カチャリ、と音がしてドアが開く。その向うから一人の女性が歩み出てきて、 「シンジ!会いたかった!」 相手を確認するまもなく抱きつかれたシンジは、その顔を見て、驚いた。 「君は!」 「あんたは!」 その驚きはアスカも同じだった。 そしてそれは、アスカが抱き続けていた不安が、適中した瞬間でもあった。 「霧島、マナです。よろしくお願いします。」 およそ半年前。第3新東京市。 それが、シンジとマナの、初めての出会いだった。 運命的な出会い、などというものなどシンジは信じてはいない。だが、彼女の顔を見たとき、なぜだかそんな言葉が浮かんできた。 要は一目ぼれ、ということになるのだろうが、無論その事実にシンジは気付かない。だが、皮肉なことにシンジのすぐ後ろにいた少女にはそれが判ってしまった。 当然のように不機嫌そうな表情をシンジに向けるアスカ。 「霧島さんの席はー、碇君の横の席へ、座ってください。」 そんなアスカの気持ちを知ってか知らずか、老教師はマナをシンジの横の席へ座らせる。 「よろしくね。碇君。」 にこやかに挨拶をするマナ。対照的に更に不機嫌になるアスカ。 もちろんシンジはそんなアスカに気付いてはいない。もっとも気付いていたとて、なぜ不機嫌なのか、その原因は彼には絶対に判らないだろうが。 この時シンジは、マナの笑顔に魅入られていた。 そして、時の歯車は、静かに回りはじめた。 「霧島マナ、間違いなく軍のスパイですね。」 マナが転校して来て3日後。ネルフ本部。 冷静に、かつ簡潔に、加持リョウジはそう言い放った。 「そう、か」 その報告を受け、僅かだが動揺を見せるゲンドウ。 ふと、そんなゲンドウを怪訝に思う加持。ゼーレならまだしも、軍程度の、それもスパイといっても僅か14歳の少女である。 シンジを介して多少の情報が漏れることはあるかもしれないが、言ってしまえばシンジの知る情報などたかが知れている。 少女とはいえ小さい頃から訓練を受けたエリート、といえなくもないが、加持あたりから見ればまだまだ甘い。そもそもスパイがその存在を簡単に知られているという時点で、軍の実力も、彼女自身の諜報能力も大したものでないのが判る。 囮という線もあるから、軽々しく相手を見くびるのは避けねばならないが、必要以上に警戒する必要もない。 "プロ"としての加持にはそういう思惑があるし、ゲンドウとてそれは判っているはずである。 ではなぜ?ゲンドウほどのものが動揺するような"何か"が彼女にはあるというのだろうか。 「判った。下がりたまえ。」 内面の葛藤を探られるのを嫌ってか、ゲンドウは加持を下がらせる。 『何か裏がある、ということですか。それもよほど知られたくない,"何か"が。』 だが、そんな内面の声を表には出さず、加持は素直に命令にしたがった。 「碇、彼女は・・・」 それまで黙っていた冬月が、加持の気配が去るのを待って口を開く。その顔は心なしか蒼い。 「ああ、間違いない。」 「ゼーレの、差し金か?」 「いや、あの老人たちはこの事実は知らんよ。彼女がここに来たのは単なる偶然だろう。だが、」 「"偶然"の一言で片づけられる問題ではない、か。で、どうするのだ?」 「今のところは問題はない。ほおっておくさ。」 「いいのか?それで。」 「かまわんさ。仕組まれた運命など、私は信じてはいない。ユイもそうだった。」 「意外だな。信じてたからこそ、あの二人を引き離したと思っていたのだが。」 「母親によく似た、幼馴染みの少女にひかれていく。そんなものは運命でもなんでもない。そうでしょう冬月先生。」 どことなく皮肉めいた言い方をするゲンドウ。 「嫌みかね。それは。」 「いいや。自然なことだ。悪いことじゃない。」 「そうかも知れんな。」 多少釈然とはしないが、冬月は自分自身に重ねあわせ、そう答えた。 つまり、ゲンドウの言ったことは冬月自身にも当てはまっているということである。 冬月は幼くして両親を亡くし、母方の遠縁に引き取られた。そこで出会った、自分の母親によく似た女性、姉のような母のような女性。 それが現在の冬月の妻、ユキコであった。 「だが、そうならばなおさら、あの二人は引き離さねばならないのではないか?」 しばらく考え、冬月はそう危惧する。 「問題無い。今のシンジにはレイがいる。」 「まさか、そのためにレイを・・・」 やや、あきれたような表情の冬月。 「別にそのためにレイがいるわけではない。だがな、私とてシンジには幸せになって欲しいのだ。」 「親心か。」 「シンジがレイと結ばれて幸せになってくれれば、それが一番いい。」 「そうだな。」 だが、そんなゲンドウたちの思惑とは裏腹に、シンジとマナの仲は急速に近づいていった。 シンジがマナにひかれていった理由は、無論、彼女の中に母の面影を見たからである。 シンジは母親の愛情に飢えていた。母親に冷遇されていたわけではない。むしろシンジの母ユイは、シンジに惜しみない愛情を与えていた。それどころか、エヴァの中に残った現在も、シンジを愛する気持ちは変わっていない。 だが、物心が付く頃、ユイはシンジの前にはいなかった。 表層心理の中に、ユイの面影も思い出もない。だが、深層心理の奥には確かに母のぬくもりが残っている。 だからこそ、余計にシンジは母が恋しいのだ。 母親の面影、という点では、ゲンドウたちが考えるように明らかにレイのほうがユイに近い。 元々レイはユイの姿を模しているのだから、容姿が似ている、というかそのままなのは当たり前だ。 そもそも、マナはそれほどユイに似ているとは思えない。アスカやミサトと比べれば、確かに近いタイプとは言えるかもしれないが、なんとなく似ているような気がする、という程度のものである。 だが、直接的でないからこそ、むしろマナの中に母を感じたといえる。 一方、マナがシンジに近づいたのはあくまで任務である。だが、 「ごめん、マナ。」 マナの向かいに座った少年、ムサシは開口一番、そう言った。 「ううん、これもムサシとケイタのため。友達でしょ、私たち。」 明るく振る舞うマナ。だが、そんな彼女のしぐさにムサシは不自然さを感じていた。 「好きなんだ。碇シンジ君のことが。」 「あ、あれはあくまで任務で・・・」 「言わなくても分かるよ。付き合いが長いからね。僕やケイタに見せる表情とは明らかに違う。」 「そう、かな?」 「だから辛いんだ。」 「そうかも、知れない。これ以上シンジを騙したくない・・・、嫌われることになっても・・・」 その先は声にならない。 「好きだという気持ちまで、偽ることはないさ。マナ一人が幸せになるのに、何の不都合があるもんか。」 「ありがとう、ムサシ。でも・・・」 「デートするんだって?」 思い詰めたマナの表情を見て、ムサシは明るく話し掛ける。 「楽しんでくるといい。一日ぐらい任務を忘れたって、誰も責めやしない。いや、僕が責めさせはしないよ。」 最後は自分に言い聞かせるように、ムサシは強く、そう言った。 そして日曜日。 はじめてのデート。 ムサシに言われたからではないが、マナはこのデートを楽しむことに決めた。 シンジに本気になってしまった。これは認めざるをえない。 どこが、というのは彼女自身にも分からなかったが、往々にして恋愛とはそんなものだということも彼女は知っていた。 人を好きになるのに理由などはいらないのである。 少女漫画的な言い方をすれば運命を感じた、とでも言うのだろう。だが、その感覚というのは間違いではない。 だから、シンジへの恋心を彼女は認めた。 だがそれは、自分の気持ちに素直にならなければ、後悔することが判っていたからでもある。 自分の気持ちに素直になれる、という面だけを見ると、マナとアスカは好対照であり、客観的な見方をすれば、マナの方が精神的に大人であるようにも思える。 だが、実際の問題は精神的なものよりも、彼女たちを取り巻く状況にある。 アスカにしてみればシンジはいつも側にいるものであるし、何事もなければこのままでずっといられるという安心感がある。 だがマナは、マナにとってはこのデートが最初で最後なのだ。 追いつめられているが故に、素直にならざるをえない、彼女の悲劇がそこにはあった。 だが、そんな心の底の想いを、マナはおくびにも出さなかった。 「ねえっ、マナって呼んで。」 「え、なんか、恥ずかしいや。」 「呼ばないと、お弁当お預けね。」 そういってマナはいたずらっぽく微笑む。 シンジはこういう状況には慣れていない。もっとも、マナだって慣れているわけではないのだが、こういう時は大概女性の方が度胸がすわっているものだ。 それでも、男性の方から言って欲しいと思うのが女心である。 そういった方面に疎いシンジとしては、甚だ困った状況なのだが、なぜか、今のシンジにはそれすらも心地よかった。 一人で生きて行ける、友達なんかいらない、などというのは寂しさの裏返しでしかない。 結局のところシンジは愛情に飢えているだけでしかない。自分が愛される自信がないのだ。 だから、マナのようにわかりやすい好意をあらわしてくれる女性が心地いいのだ。 「マナ。」 「なあに、シンジ君。」 マナも、幸せだった。好きな人にわがままが言える、これほど幸せなことはない。 恥ずかしいといいながらもシンジは名前で呼んでくれた。 単純な話だが、なぜか、そんな中にマナは無性に幸福感を感じていた。 「マナ、好きだよ。」 「私もよ。」 夕日をバックに二人の影が重なり合う。 シンジ、マナ、両方にとっての、ファーストキス。 ほんの少し唇が触れ合っただけの、軽いキス。 それでも二人にはそれで十分だった。 それだけで、お互いの全てが分かり合える気がした。 時がこのまま止まれば、どれだけ幸せだっただろう。 だが、運命は残酷であった。 マナがスパイであることが、シンジに知らされる。 それでもシンジはマナを信じようとした。 マナの言葉に嘘はない、シンジはそう信じたかった。 事実、シンジを好きだといったマナの言葉に嘘はなかった。 だから、シンジは恨んだ。父を、父に告げ口をしたアスカを。 なぜ、そっとしておいてくれないのか。なぜ、自分とマナは引き裂かれなければならないのか。 一番不幸なのは、だが、シンジでもマナでもない。 アスカが告げ口をするまでもなく、霧島マナがスパイである事は、ゲンドウたちには分かっていた。 更に言うなら、スパイであること自体にさしたる危険はない。所詮、その程度のスパイでしかないのだ。 スパイ、などというのは2人を引き離すの口実にすぎない。 つまり、アスカは体よく利用されたのだ。真実から、目を逸らさせる為に。 アスカにしてみれば、確かにシンジとマナを引き離したいのだが、それもまた、別にスパイだから、とかそんな理由ではない。 素直に自分の気持ちを伝えられれば何も問題はないのだが、それができないゆえの、策である。 結局のところ、やらなくていいことをやってシンジに恨まれるのだから、アスカにとっては不幸なことこの上ない。 そして、その事実に気付いていないことも、アスカにとっては不幸なのである。 「で、結局どうするんだ?見殺しにするのか、彼女を。」 司令室の中。冬月は渋い顔をゲンドウに向ける。 「それはできん。そんなことをしたらユイに恨まれてしまうからな。」 自嘲気味に苦笑いするゲンドウ。 「もっとも、私たちは何もする必要はない."奴等"が彼女を殺させはしないさ。彼らの目的の為には、どうしても彼女とシンジが必要だからな。」 実のところ、これはゲンドウにしてはあまりに軽率で、楽観的な考えであった。 ゲンドウとて、全てを知っているわけではない。結果的にマナが助かるのも、偶然のもたらした幸運によるものなのだが、そのことには気付いていなかった。 「また、シンジに恨まれることになるな。」 それこそが、ゲンドウにとっての一番の悩みなのかもしれない、冬月はそんなことを考えていた。 |