1943年
爆弾背負い込んだ異国の戦場
何度も立ちすくむのは同じ空の朱
瞬間、閃光に眼が灼かれる
気が付いて初めて見たのはコンクリの天井
そして左脚がなくなっていた
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1945年
終戦はしても脚は還らない そして我が同胞も
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1950年
祖国、日本では米国様が最先端らしい
極東裁判や国鉄の人員整理.............解体されて、喰われている
両足も家も家族も全部戦争で失った
だから中国に逗留し続ける事も問題は無かった
祖国に対する思慕の情は、天皇陛下が天下りされたのと同時に消えていた
天皇陛下は神でなければならなかった
神のための戦争であり、そうでなかれば誰もが何も失う理由にはならないからだ
ソレを米国は踏みにじった
中国も気心が知れれば住みやすい国だった
彼らは強引に習得させられた日本語を巧みに操っていたし、こちらも日本人よりも怪我人という人種だった
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1976年
「組織」の李がやって来た
仕事として諜報活動をしていたから
日本人というだけでまだ顔が利く場面も有ったからだ
家族はない
いや、この組織だけが家族だった
だから家族の頼みで日本へ行く事も厭う理由は無かった
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1985年
戦争での負傷者には年金が付く
日本の物価でも十二分に暮らせるだけの、金が
人間の為に人間が殺し合い、金で贖われていた
武蔵野に居を構えて9年
直接、李に逢うのも実に9年ぶりだった
そして初めて見る朱い髪の青年
李の話しは兄弟の憎愛が交錯していた
その愛憎に終止符を打つのはこの青年だという
青年に「朱美」という名を付けた
名は体を表すのだから、体が名を付けるのも間違いは無い
その日の夕焼けは朱美の髪に映え、美しい光景だった
そして、戦場と同じ朱
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1990年
心臓が跳ね狂っている
自宅療養という奴だったが、入院したトコロで治るモノでも無い
最後に見たのは朱美と李が手を握っていてくれる光景だった
同胞と子に手を握られて逝くのも、悪くない..........
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to be continued
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