いろいろ以前から記入はされていますが、川を使った物流と交通の記入は、史書には無い様です。
中国でも、物流は、南船北馬のたとえもある用に、川による水運が、交通のメインです。
当然の事だから記述が残されてないのか?
其れとも、邪馬台国の都自体、河口に近いところに存在していたため意識されなかったのか?
古墳時代、古墳は、おもに川沿いと言って良いよう形で近くの台地などに作られ、同時に集落も同じように作られています。
弥生時代も、実態は、変わりません。
と言うより、近代まで変わっていないのです。
では、弥生とも古墳ともつかない時代である邪馬台国は、水運交通上川沿いだったはずです。
すると、陸路を使うのは、おかしいと使者は考えるはず。
となると、ヤマトというのは、怪しくなってきませんかね?
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