縄文人はイモ類を焼畑してた?

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [7月12日(金)22時56分09秒]

元の発言 [ Re: ちと反論と言って良いかどうか? ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 7月11日(木)23時50分04秒 ]

オヤジッチさん こんばんは。

>> 縄文遺跡の貯蔵穴の殆どはドングリ類が入ったままの状態だということですので、食料に困っていたわけではないようですし。(九州だけ?)

 やはり、ドングリは、救荒植物ということでしょうか。
 それと、貯蔵穴って、貯蔵中は上に土をかけておくんでしょうか。リスじゃないけど、どこに埋めたか忘れちゃっただけだったりして。。。(閑話休題)


>> 私としては、豊富な食料があったのに飢饉の危険性がある単一作物に固執したのは「なんで?」と思うんですネ。
>> 渡来人が無理やり作らせたんだという人もいますけど、どうなのかナー?

 これに関連して、最近読んでる吉川弘文館の「日本の時代史1倭国誕生」(白石太一郎 編)で、ちょっと気になる記述(151ページ)を見つけました。これによると、
 (1)遺跡から出土した食物残渣の調査例として、III期前半の滋賀県粟津湖底遺跡第3貝塚では、当時の食料はカロリー換算で、植物(堅果類)52%、獣類11%、魚類20%、貝類17%。
 (2)人体組織の炭素・窒素同位体で食料の種類を調べると、III期内の本州では地域差、時間差がなく、80%が植物食。
 (3)上記の結果は異なるが、植物の根茎類や葉菜類は腐食しやすく、遺物として残らないので納得がいく。
 (4)アワやヒエは、同位体比の構成が異なるので、縄文人は利用していない。
というようなことが書いてあります。

 (1)の記述から、一見、縄文人の主食は堅果類のような感じがしますが、よく考えると、、、
 粟津遺跡の場合でも植物(堅果類と腐食してなくなった植物の合計)が80%であったととして、食料の割合を計算し直すと、植物(堅果類)22%、獣類5%、魚類8%、貝類7%、それと、腐食してなくなってしまった植物58%となります。
 つまり、粟津遺跡の人たちの主食は、ドングリでも魚介類でもなく、この腐食して検出できなくなった植物(一種類の植物だったとは限りませんが)だったということになります。
 カロリーが高い根茎や葉菜というと、やはりサトイモやヤマイモなどのイモ類が中心となるでしょうけれど、自然に生えてるやつだけを採集してそんなにカロリーが取れるとは思えませんから、どう考えても、粟津の人たちはこれらのイモ類を栽培していたとしないとつじつまが合いません。

 もしかすると、縄文から弥生への変化というのは、狩猟・採集→農耕ということではなく、焼畑イモ作→水田稲作ということなのかもと思いました。



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