Re: 縄文人はイモ類を焼畑してた?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [7月13日(土)00時41分17秒]

元の発言 [ 縄文人はイモ類を焼畑してた? ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 7月12日(金)22時56分09秒 ]

>> >> 縄文遺跡の貯蔵穴の殆どはドングリ類が入ったままの状態だということですので、食料に困っていたわけではないようですし。(九州だけ?)

結構色々なとこれで、出ているとき居てますが。

>>  やはり、ドングリは、救荒植物ということでしょうか。
>>  それと、貯蔵穴って、貯蔵中は上に土をかけておくんでしょうか。リスじゃないけど、どこに埋めたか忘れちゃっただけだったりして。。。(閑話休題)

>> >> 私としては、豊富な食料があったのに飢饉の危険性がある単一作物に固執したのは「なんで?」と思うんですネ。
>> >> 渡来人が無理やり作らせたんだという人もいますけど、どうなのかナー?

>>  これに関連して、最近読んでる吉川弘文館の「日本の時代史1倭国誕生」(白石太一郎 編)で、ちょっと気になる記述(151ページ)を見つけました。これによると、
>>  (1)遺跡から出土した食物残渣の調査例として、III期前半の滋賀県粟津湖底遺跡第3貝塚では、当時の食料はカロリー換算で、植物(堅果類)52%、獣類11%、魚類20%、貝類17%。
>>  (2)人体組織の炭素・窒素同位体で食料の種類を調べると、III期内の本州では地域差、時間差がなく、80%が植物食。
>>  (3)上記の結果は異なるが、植物の根茎類や葉菜類は腐食しやすく、遺物として残らないので納得がいく。
>>  (4)アワやヒエは、同位体比の構成が異なるので、縄文人は利用していない。
>> というようなことが書いてあります。

三内円山では、粟、稗の類が、栽培され食用にされていた証拠は出ているようです。
其れだけでなく、信州の方でも井戸尻遺跡などで出てるようです。

>>  (1)の記述から、一見、縄文人の主食は堅果類のような感じがしますが、よく考えると、、、
>>  粟津遺跡の場合でも植物(堅果類と腐食してなくなった植物の合計)が80%であったととして、食料の割合を計算し直すと、植物(堅果類)22%、獣類5%、魚類8%、貝類7%、それと、腐食してなくなってしまった植物58%となります。
>>  つまり、粟津遺跡の人たちの主食は、ドングリでも魚介類でもなく、この腐食して検出できなくなった植物(一種類の植物だったとは限りませんが)だったということになります。
>>  カロリーが高い根茎や葉菜というと、やはりサトイモやヤマイモなどのイモ類が中心となるでしょうけれど、自然に生えてるやつだけを採集してそんなにカロリーが取れるとは思えませんから、どう考えても、粟津の人たちはこれらのイモ類を栽培していたとしないとつじつまが合いません。

>>  もしかすると、縄文から弥生への変化というのは、狩猟・採集→農耕ということではなく、焼畑イモ作→水田稲作ということなのかもと思いました。

いも類は、見つかっていないだけで、あったと考えます。
今に残る言葉で、芋名月や其の風習からもそう思わないわけに行きません。

で、今部屋の何処かに言ってしまった本なんですが、面白い記述が有りました。
江戸時代でしたか、信州だったか、飛騨あたりの山奥の集落での食料や栽培状況の調査結果が出ていました。

其れによると、驚いた事に、其の当時でさえ、住民の食料の50数%を、堅果類仁た寄っていた様なのです。
勿論、少ない水田と畑では、年貢用や祭りなどの為の米や麦、其の他の雑穀も作っていた様ですが。

非常用としては、面白いものも使っていた様です。
めったに取れないが、取れた時には大勢集めに集まった様です。
ささや竹の実です。
何十年に一度しか実らない様ですが、それだけに十年単位で持つらしいです。

これからすると、如何考えれば良いのか、頭痛がしてきました。



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