元の発言 [ Re: Title神社形式 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 6月16日(日)08時04分20秒 ]
こんにちは
>> 私が前方後円墳、又は前方後方墳の原型ではないかと疑っているのは
>> http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f2.jpg
>> です。
>> 鴨緑江の流域の慈江道にある積石塚で、この形を見ると山の高い方が大きくなった時、前方後円墳、又は前方後方墳のいずれにも変化し得るように思えます。
>> 帆立貝型と言われる前方後円墳は山の高い方が大きくなっただけではないでしょうか。
>> この墓を前方後円墳の原型だと言っているのは北朝鮮の学者だそうです。
>> 日本に来ると何でも大型化し、装飾がほどこされるのは銅鐸を見ても明らかでしょう。
>> 私は大型化して石が不足するようになった結果、土盛墳丘を石で封じるような形態になったのであろうと推測しています。
>> 四隅突出墓と言う変わった形の弥生時代後期の墓も韓半島の付け根、高句麗の支配地域で見つかっているそうです。
おっしゃった部分は現在, 私としては言い切って申し上げるちょっと難しいです. リンクさせてくださった絵のような形式の積石塚に対する消息は韓国でも接することができました. 私が聞くには日本の江上先生がこの墓たちを直接見たと聞きました. TVでも放映になったと言っていたが, 私はその姿を直接見られなかったし, ただリンクさせてくださった絵のような図面だけちょっと見ただけです.
制限された資料でむりやりに申し上げることはむしろ良くないようで私の考えだけに申し上げます.
私が見る視覚ではまず, 前方後圓墳, そして四隅突出形墳丘墓みたいな場合, その淵源を彌生墳丘墓発達を考慮する方がずっと自然ではないか思います. まず彌生墳丘墓 場合, 封土に葺石をあげる形式は封土自体よりは遅く出たと思います. 原型は封土を積んで上げてその上に墓を造営する形式ではなかったんでしょうか? 韓国の積石塚の場合, その淵源が遼東地域の石棺墓とその周辺の積石にあると思います. 高句麗の積石塚たちを見ても土を積んで上げてその中に売場主体部を配置するのではなくて, 売場主体部は積石に席を取るようになるから見掛にはどうだろうか分からないですが内部の構造は相当な差を見せると思います. 特に前方後圓墳 持っているさまざまな文化的な要素たちを考えて見ればこの墓を高句麗と直接連関をつけられる難しいと思います. 高句麗墓には周溝がないですが, 前方後圓墳は周溝がある彌生墳丘墓影響の下ではじめから作われると思いますが, 土器類の場合にも前方後援分の場合, 彌生土器類と関連がないでしょうか? 高句麗土器は彌生土器と直接関連を作らせる難しいと見えます.ただ, この前にも申し上げたんですが, 周溝墓と墳丘墓自体が韓半島南部と密接な関連を持って造成され始めた可能性は考えて見られる見ます. 韓半島西南部地域では最近年代がよほど上がる周溝墓や墳丘墓が発掘され始めているのに, この墓たちは他の彌生文化たちと同じく彌生文化が展開される過程で韓半島から日本列島で伝えて入って行った可能性を排除することができないと思います.
たぶん古墳中期に見える性格上の急変のため高句麗系統と前方後圓墳を連結させて見ようとする気がすることも自然だと考えて見ますが, 古墳中期に出現し始めるさまざまな韓半島関連遺物たちが高句麗に淵源を直接置くことができることか, する問題はちょっと考慮の余地があると見えます.
古墳中期に見える遺物たちは正確に申し上げれば, 高句麗の遺物ではなくて, 伽揶係遺物です. 伽揶の遺物は土器と甲紬類などにいて皆差があって, この遺物たちが 5世紀以後大型化する前方後圓墳で発見され始めます. 伽揶地域では後代の前方後圓墳で発見されることと類似の遺物たちが 3世紀末-4世紀初めの大成洞古墳という所で発見されたが, この墓の様式は木槨墳です. 木槨墳というのは東アジア一帯に広く広がっていたからその系統を把握しやすくないのに, 慶尚道地域には申し上げた中山里古墳や大成洞古墳のような形式の木槨墳が西紀 2-3世紀頃多数発見されました. このような木槨墳は大同江流域の木槨墳とは関連がないと見えてもしかしたら韓半島外地域の木槨墳と関連があることもでき, 木槨墳を高句麗と連結させることは現在としてはちょっと難しいと見えます. なによりも高句麗地域で木槨墳がたくさん使われた跡を捜しやすくないと考えられます. 一例を見れば大成洞古墳みたいな場合, その遺物や売場方式において北方遊牧民足跡特徴がたくさん現われます. この古墳の主人公はおわかりの通り金官伽揶だと思うのが一般的な解釈です.
>> >> http://www.metro.seoul.kr/kor2000/vr_gallery/sub/vestiges/vestiges5/image/vestiges5_1.jpg
>> このリンクは見ることが出来ませんでした。
他の写真をまたリンクさせます. 以前にリンクさせたことももう一度お願い致します. サーバーがちょっと不安定したようですね.
http://www.metro.seoul.kr/kor2000/seoulguide/seoulart/place/historical/sa243.jpg
>> 無基段式積石塚と言えばキトラ古墳と言うのが日本にもあって平壌付近で見た星座が書いてあったと聞いています。
>> キトラ古墳の姿は葺き石を被ったその無基段式積石塚そのものに見えます。これは7世紀の物ですが。
>> 階段式は定型化したといわれる前方後円墳も同じです。
この部分は上にあげた内容で代わりをしたいです. こぶ, 異見があったらもう一度文を載せてくださったらと思います
>> 14C放射性同位元素の半減期による年代測定は10〜20%の誤差を考慮しなければならないでしょう。
この部分については私も報告書を求めて読んで見なければなりませんが, 存じていらっしゃると思いますが, 考古学で年代を求める時はカーボンデーティングみたいな絶対編年にだけ寄り掛からなくて, 相対的編年を考慮するのが常例だと思います. 周溝墓の場合, 韓半島では石棺墓という墓祭りは青銅器前期に見えるよほど早い時期に造成された墓祭りなのに, この間に石棺墓周りで周溝の発見された場合があって周溝墓の年代の上がる可能性がもう一度申し立てられたことがありました. 今度発見されたことはその可能性を明らかにさせてくれることだと思います.特に共伴遺物たちを見る時よほど年代が上がることは排除しにくくないか思います.
>> 積石木槨墓と言うのは新羅時代の特徴的墓制と聞いています。
>> 蔚山中山里古墳2,3世紀というのは本当なのでしょうか?
>> 高句麗、百済、新羅の三国時代ならば高句麗の影響を受けて積石木槨墓が出来ても不思議はありませんね。
木槨墓だと言うことは私が知っている限りでは東北アジアで ある一つの民族だけ持ったことで理解することはちょっと難しいと思います. おわかりの通り韓国には日本の大和にあたる一番目国家で古朝鮮を上程しているのに, 現在古朝鮮社会が準国家段階に入って行くことはこの地域で発見される細形銅劍文化段階の木槨墓社會だと見ています. (B.C. 3-2世紀頃) この段階になれば, 細形銅劍と鉄器が副藏されて, 車馬附属が埋藏され始めるなど, 社会の変化様相を濃厚に見せてくれています.
しかしこのような木槨墓は古朝鮮地域でばかり使われたのではなくて, 広くは鮮卑, 匈奴があったと考えられる地域でも発見されています. 申し上げた伽揶と新羅地域の大成洞及び中山里古墳の場合, 木槨墓でもこのような北方係木槨墓にその淵源を置いているから木槨墓の段階になれば鉄器が大量部長されて, 馬具類が出土され始めます.3世紀末を起點して初めて人と言葉(馬)を殉葬(殉葬)と, 武器を曲げて部長する習俗とともに騎馬用(騎馬用)の鉄製甲紬(鉄製甲冑), 北方遊牧民族的墓祭り, 馬具類(馬具類), 陶質土器(陶質土器), オルドス型冬服(銅復) など北方遊牧民族の習俗と遺物が多量で反映されるとか出土されている事実だという...,
>> 弥生時代に九州よりはるかに遅れていた畿内が九州に先駆けてホケノ山古墳などの前方後円墳を作って、その後、九州を凌駕していくと言う事を考えると外来勢力の影響を考えずにはおれません。
>> そしてそれは九州と似た風俗を持った馬韓や辰韓ではなく高句麗あたりではないかと想像するのです。
この部分に対してはちょっと説明が必要のようです. まず, 高句麗を北方係, 百済と新羅は南方係だと把握する方式に対してはちょっと考慮する部分があると思うのに, まず, 韓国の場合, 青銅器時代を見れば北方係と南方係の仕分けというのが明らかでないです. 勿論, 地域的な差と言う事は確かに存在するが, 遼東半島と南満洲, 韓半島地域は無文土器の盛行, 支石墓, 石棺墓の盛行, 琵琶形銅剣, 細形銅劍 等 青銅器の様式とか, 他の諸般文化的な特徴において大きい差がないです. 人種的でも文化的でもほとんど類似の集団が居住したと見ても良いことだと思って, まるで日本列島に大きくほとんど等しい性格の集団が居住したようにこの地域も似ている状況だったと見ても良いと思います.
韓半島の場合におっしゃった北方係の性格というのをもし遊牧的特性を示すお話なら, 大成洞古墳のようなことは必ず高句麗と連結させるにはちょっと困難があります. 墓制とか副藏遺物において高句麗と差があって, 敢えて外部から移して来たと見做そうとすると韓半島以北地域どこから来たが, 高句麗とは無関したようです. このような視覚は勿論, 学者たちの中にはこのような移動自体を否定する方々もよほど多いと見えます.
一応私の考えを申し上げると, まず前方後圓墳の場合, 前期と中期の性格に対して明確にあると見えます. 私の場合には中期の場合は, 大成洞古墳に代表される伽揶地域と密接な関連を持って変化が招来されたし, 前期, すなわちホケノ−ヤマに象徴される成立期の場合には日本列島自体でその発展の起源を求めるのが正しいが, 前方後圓墳の起源になる彌生後期の墳丘墓 場合, 韓半島との関連性がこれからの研究によってどんな方式でも返事をズル 可能性が高いと考えて見ます.
ありがとうございます.
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