Re: Title神社形式

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [6月16日(日)08時04分20秒]

元の発言 [ Re: Title神社形式 ] お名前 [ 韓国から ] 日付 [ 6月15日(土)19時21分18秒 ]

どうも有難う御座います。

>> 積石塚は元元,學者よって論難はあるが,私の場合にはその原型は?東半島地域にあると思います.BC7-8世紀頃にあたる石槨墓が 積石に造営されている墓たちのあるのに,この墓たちは韓半島でも発見される琵琶形銅剣文化圏にある墓たちです.ただ,この墓たちと鴨緑江流域の高句麗係積石塚と連結させる問題は両者の間の時間差が大きいという点(約500年?)です.この問題はこれから解決されると月払いの方だと見られるようです.

>> 私たちが分かっている積石塚と言う(のは),主に鴨緑江流域に造営されている高句麗初期の墓たちなのに,鴨緑江中流に約10000基存在すると言います.大きく二種類に別する事が出来るのに,一つは無基段積石塚で,他の一つは基段式積石塚,有名な將軍塚がここにあたると言います.

>> この積石塚たちは高句麗が残した墓たちなのに高句麗は後期にはこんな墓を造営しないで大同江流域の專築墳の起源した横穴式石室墳を使います.このような転換の起きる時期はたいてい5-6世紀頃になるようです.

私が前方後円墳、又は前方後方墳の原型ではないかと疑っているのは
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f2.jpg
です。

鴨緑江の流域の慈江道にある積石塚で、この形を見ると山の高い方が大きくなった時、前方後円墳、又は前方後方墳のいずれにも変化し得るように思えます。
帆立貝型と言われる前方後円墳は山の高い方が大きくなっただけではないでしょうか。
この墓を前方後円墳の原型だと言っているのは北朝鮮の学者だそうです。
日本に来ると何でも大型化し、装飾がほどこされるのは銅鐸を見ても明らかでしょう。
私は大型化して石が不足するようになった結果、土盛墳丘を石で封じるような形態になったのであろうと推測しています。
四隅突出墓と言う変わった形の弥生時代後期の墓も韓半島の付け根、高句麗の支配地域で見つかっているそうです。

>> 韓半島地域で積石塚の発見される地域はおもしろくも他の地域は殆ど発見されないで漢江流域でばかり発見されると分かっています.漢江流域では無基段式積石塚と基段式積石塚が皆発見されているのに,形態は方形が基本で,出土遺物で見て高句麗と何か関連があるものは明らかに見えるが,形態においては地域的な特色がちょっと現われるようです.高句麗のとまったく同じではないというのですね.このような積石塚は無基段式積石塚の場合は早くは西紀元年を前後した時期まで見る人がいて,基段式積石塚の場合は3-4世紀に見ているようです.この漢江流域の積石塚たちは現在百済の建国と関連があると見なされているのに, 先日に申し上げた西紀元年を前後した大規模土城 (風納土城)が発見されてこのような 學派がもっと有力視になっていると見られます.下に基段式積石塚中のひとつの石村洞古墳群の積石塚の絵を下やリンクさせます.

>> http://www.metro.seoul.kr/kor2000/vr_gallery/sub/vestiges/vestiges5/image/vestiges5_1.jpg

このリンクは見ることが出来ませんでした。
無基段式積石塚と言えばキトラ古墳と言うのが日本にもあって平壌付近で見た星座が書いてあったと聞いています。
キトラ古墳の姿は葺き石を被ったその無基段式積石塚そのものに見えます。これは7世紀の物ですが。
階段式は定型化したといわれる前方後円墳も同じです。

>> おっしゃった前方後援の方の起源問題は私が見るには前方後圓墳の発生を積石塚と連結させることは無理だと思います.なによりも前方後圓墳は土を 積んで その所に埋藏主体部を設置する彌生の墳丘墓以来の伝統を引き継いでいるのに,このような構造と積石塚は差がたくさん出ると思って私の個人的な見解では前方後圓墳は最近の3世紀頃の前方後圓墳発掘たより通りだったら,畿内地域で起源を尋ねた方が良いようだという考えです.

>> ただ,彌生墳丘墓 場合はちょっと考慮して見る部分があるものが彌生時期の墓祭りの主な特徴だと見られる墳丘墓と周溝墓 同じようなものが最近韓半島南部地域で発見され始めています.周溝墓は今日,重要な発掘報告が一つあったが青銅器前期に考えられる石棺墓が周溝をかけていることが報告されました.この周溝墓は現在まで知られた周溝墓中一番 古いので 松菊里時期よりもっと古いと見られるかも知れないです.カーボンデーティングデータも公開されたようなのに私も今日分かるようになって他の情報は持っていないです.

14C放射性同位元素の半減期による年代測定は10〜20%の誤差を考慮しなければならないでしょう。

>> 韓国には彌生後期に日本で発見される 墳丘墓が栄山江流域,だから韓国の全羅南道地域で発見されています.まだ一番古い墳丘墓は日本の物と似ている連帯の物だと考えられるのに韓国の考古学の場合,まだ漢江流域や忠青,全羅道地域(旧百済地域)に対する発掘をたくさん進行されていなくてこれからの発掘報告が注目されると出来ます.

>> 一つだけ終りに付け加えて見ようとすると,前方後援墳の場合,その埋藏主体部で知られた木棺は殆ど類似ののが韓半島南部地域で発見された事があります.現在韓国学界ではこの前に確認にならなかった土壙墓の場合,このような丸太木棺の使われた場合がこの外にも多かったことと思っていると言います.下にその写真を付け加えます.

>> http://sanggo.mokpo.ac.kr/AttachFiles/daho4.jpg

>> 最近報告されたホケノ−ヤマ古墳で積石木槨墓が出てきたものは分かっていらっしゃるはずだと思いますが,これと殆ど類似の古墳が韓国の蔚山中山里古墳で確認されました.ここに係わる記事を添付します.

>> http://osaka.yomiuri.co.jp/nara/hakkutu/010809.htm

積石木槨墓と言うのは新羅時代の特徴的墓制と聞いています。
蔚山中山里古墳2,3世紀というのは本当なのでしょうか?
高句麗、百済、新羅の三国時代ならば高句麗の影響を受けて積石木槨墓が出来ても不思議はありませんね。

>> 私の拙いと言う所見で申し上げれば,現在の前方後圓墳という墓祭り自らの起源をそのまま韓国で尋ねることはちょっと無理だと思います.前方後圓墳という墓祭り自体は現在までの発掘を見ればどうしても畿内地域ということが正しくないのか思って,ただ墳丘墓議発逹過程とか埋藏主体部の面において韓半島との関連性は充分に思って見られるはずだと思って見ます.

弥生時代に九州よりはるかに遅れていた畿内が九州に先駆けてホケノ山古墳などの前方後円墳を作って、その後、九州を凌駕していくと言う事を考えると外来勢力の影響を考えずにはおれません。
そしてそれは九州と似た風俗を持った馬韓や辰韓ではなく高句麗あたりではないかと想像するのです。

>> ありがとうございます.

又よろしくお願いします。



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