Re: On the dating of 松菊里遺跡

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [6月10日(月)07時03分17秒]

元の発言 [ Re: On the dating of 松菊里遺跡 ] お名前 [ Korea ] 日付 [ 6月9日(日)06時51分45秒 ]

「seemd」というのが私の乏しい英語の語彙にはありません。ひょっとすると「seeds」の事でしょうか?

私は高校で他の科目と一緒に日本史を学ぶ過程の中で韓国との関わりを知った程度の知識しかありません。
歴史は受験科目になかったのでいま勉強している所です。

なんと言っても中国の黄河文明が有名でしたから中国と地続きの韓半島のほうが早く発展していったと高校で教育されました。
従来、金属の使用は韓半島の方が早く、稲作の伝播についても韓半島経由で日本列島に来たと言うのが主流で、高校でもそのように教えられました。
弥生時代の到来も韓半島から移住してきた人々によってもたらされ、稲作もこの時始まったという風に教えられたのです。
しかし、米の件は中国北部では稲作がなかった事を考えると北廻りの稲作伝播はないだろうと感じていました。
稲作伝播については日本列島と韓半島は同条件であると考えたのです。
そして近年、縄文時代の遺跡からモミが発見され、私の「感」は立証されたと考えています。
既に韓半島で金属器の使用が始まっていたのに金属器は日本に来ず、米だけが来た。
ということは縄文時代の稲作は半島経由ではなく、直接日本に来たものではないか。
この時、同時に韓国にも稲作が伝えられたのではないか。

当然、縄文時代の人間も韓半島と少しは交流をし影響を受けたでしょうが、土器の形態は全く日本独自のものです。

弥生時代の到来のように大きく文明が変るには大勢の移動が必要でしょう。
この時は秦の始皇帝が中国を統一する時で中国南部から大勢の流民が日本列島にやってきたと思います。

当然中国での動乱は韓半島にも圧迫を与え流民を生み出し、日本にやってきた可能性があります。
二つの地域からの流入が同時に起こり、日本に弥生時代をもたらした。
しかし、秦は北方民族を恐れて万里の長城を作ったくらいですから大量の流民はなく限定的なものだったでしょう。
とは言え、韓半島からの流民は青銅器の使用などでは中国人より強い影響を与えたと思います。

青銅器など重量物を中国南部から持ってくるのは大変ですから。
韓国から金属器の便利さを知らされた倭人達は金属を求めて韓半島との交流を深めていった。
というのが弥生時代の姿だったと思います。
「國出鐵、韓、[水歳]、倭皆從取之。」という魏志東夷伝の記述、九州で沢山見つかっている朝鮮式銅鐸などがこれを示しています。

しかし、韓半島から伝わったものも日本では大きく変化してしまいます。
韓半島の人間とは違う人種だからでしょう。
韓半島が日本にもっと強い影響をあたえたのは古墳時代からであろうと考えています。

というのが考古学素人の私の見解です。

ところで韓国の方にお聞きしたいのですが帯方郡の位置はソウルか沙里院か?
韓国の方ではどちらの説が優勢ですか?
また「歴韓国」は 陸行か、水行かどちらだと思いますか?



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