元の発言 [ Re: On the dating of 松菊里遺跡 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 6月10日(月)07時03分17秒 ]
>> ところで韓国の方にお聞きしたいのですが帯方郡の位置はソウルか沙里院か?
>> 韓国の方ではどちらの説が優勢ですか?
>> また「歴韓国」は 陸行か、水行かどちらだと思いますか?
一つお話なさった部分に対する私の意見が少なくなかったですね.
大同江流域の文化に対しては現在韓国内でもよほど意見が行き違っています. この問題は昔には樂浪, 帶方という名前で単純化させて話したんですが, 最近にはこれに対する解釈が学者たちの間によほど行き違っていると見えます.
まず, 大同江流域には私の考えでは最小限2時期の中国人の移住があったと思います.
紀元前後: 中國式木槨墓
西紀 2-3世紀: 專築墳
です.
漢郡縣の設置はB.C. 108年ですが, B.C. 1世紀にあたる時期には大同江流域では中国係遺物はほとんどなくて, 以前から伝われる細形銅劍文化がずっとつながっています. 大同江流域で出現する中国係遺物の場合, 西紀元年を前後してからこそ初めて現われ始めます.
そしてこれら中国係遺物は韓半島全域で広がって行ったのがなくて, 大同江流域に集中して現われてその周りを土着的性格の文化が取り囲んでいる姿を見せています. 漢郡縣があったと思う時期は韓国が鉄器文化で移行時期なのにこの時期の文化が思うことのように大同江流域で直接的な文化の移植が起きるのではない姿を見せてくれています.
現在としては私の考えには中国式木槨墓と專築墳まっている地域を漢郡縣と関連させて理解しなければならないようです. その地域は私が上でリンクさせた地圖の部分なのに, たいてい大同江流域として平安南道と黄海道北部地域にあたります. 樂浪と帶方の場合もこの地域にあったと思って, 韓国学界の代表的な学説もこのようなことで分かっています.
申し上げた漢江流域の場合にはB.C. 2世紀以前には文化の発展がよほど遅れた地域です. この地域には松菊里形文化の影響を受けた中島式無文土器というのがあるのに, この文化が北から下った打捺文土器と混合しながら第3の中島式文化というのを形成します. 漢江流域のこの文化圏は大同江流域とはめっきり性格が仕分けされるから帶方と関連させるにはちょっと難しいと思います.
この中島式文化は鉄器の普及と密接な関連があると言います. そして申し上げた風納土城の場合は最近韓国考古学界の最大のイシュー中の一つなのに全長 4キロ, 高さ 9メートル位の土城が紀元前後した時期に築造され始めて西紀 200年頃には築造が完了したのが明かされながら従来の漢江以南地域に対する認識に大きい変化を起こしています. この土城の築造者は中島式無文土器と打捺文土器の使用者たち, すなわち中島式文化の主人公のような人と見えるのにこの土城の後半部は百済文化が発見されていて百済が漢江流域にある時の首都で見なされています. 問題は土城の築造者までも百済と連結させることができるかと言う問題があるのにこの問題には二つの視覚があると見られます.
一つは, もう分かっていらっしゃると思いますが, 韓国には西紀 300年以前の状況に対して二つの視覚が存在します. 第一は三国志魏志東夷傳のような方式にこの時期を認識する方法でもう一つは三国史記の認識のような方式で認識する方法です. 魏志東夷傳によれば, 韓半島南部地域には百済と新羅はまだ小國段階だったし, 辰王という存在がこれら小国威に存在する王として存在したと記述しています. しかし三国史記には西紀元年を前後してもう百済と新羅が相当な水準の国家発展で記録しています.
漢江流域の風納土城が紀元前後した時期まで溯及されるということが確認されながらこの城 築造者をどんなに見ようかと言う問題が頭をもたげています. 現在まではこの土城が従来知られた百済の王城とほとんど類似の地域に存在するので三国史記の認識が正しいことだと思う立場がもっと強くて, 今後とも大勢が 多いと言えるが, 辰王の存在, 馬韓の勢力で見る視覚もまったく排除されたとは表示し難いようです.
現在の韓国側視覚では樂浪, 帶方は中国係木槨墓と專築墳 発見される平安南道と黄海道北部の大同江流域で見ているし, 漢江流域はこれとは別個の土着勢力の発展で見ていることが定説のようです.
ありがとうございます.
その他発言: